55-6-11(ルーセル定跡の謎 1/7)



 話は脈絡なく続く。

 ルーセル定跡はそもそも、その正式名からして謎めいている。 『レーモン・ルーセルの生涯』の中では“連結符を用いて、「レーモン=ルーセル定 石」<Formule Raymond=Roussel>と綴る”と紹介されているのだが、実際の原 文からすると、「Formule Raymond-Roussel」が正解である。

 また、カラデックは続けて“他のルーセルとの混同を許して”しまわぬため、そうし たのだと揶揄する。  全体的にカラデックはチェスに関係するルーセルをこころよく思っていない。

 しかし、むしろチェスに関係するルーセルをこそ考える我々にとってこの“連結符” はとてつもなく重要だ。大体、もしも“他のルーセルとの混同”を許したくなかったの なら、ルーセルはその著作においても「レーモン−ルーセル」と綴らなくてはならない ではないか。  そして、この謎の“連結符”は自然に我々をあの年へと連れていってくれる。

 あの年とはどの年だろうか。  55-3-5に答えはある。  1929年だ。  つまり、ルーセル定跡発表において多大な役割を果たした亡命ロシア人タルタコーバ がデュシャンと対戦をしたあの年、十七手目で白黒互いの盤面中央に「R-R」が陣取っ て向かい合ったあの年、のちにデュシャンが「CHESS SCORE」として記録を作品化し た戦いの年である。

 奇怪な偶然はこれだけにはとどまらない……。  O君が制作したチェス年表を見ていただこう。  6月にパリ国際トーナメントでデュシャン・タルタコーバ戦があったこの年、他に何 が起こっているのか?  まさにこの年、デュシャンはトーナメントに同行していた盟友ハルバーシュタットと ともに『調停される』の執筆を始めているのである!!

 1929年6月、パリ。  十七手目に現れた両盤面最深部のふたつの「R-R」は、三年後の1932年にチェス盤 から抜け出し、現実界に出現する。  Raymond-Rousselという名前をともなって……。

 32年。  ルーセルが1931年に作った市松模様の床を持つ墓の、区画の数はいくつだったか?    カラデックはのんきにこう言っている。 “それは、アリスの鏡の中に完全なチェス・ボードを形成するという遊び半分の墓所な のだ”  同時にこうルーセルの言葉を紹介するのもカラデックだ。 “一九三二年、私はチェスを始めた。三カ月後私は、ビショップとナイトの非常に難し い王手詰めに関する(……)定石を発見した”、と。  1932年にチェスを始めた人間が、なぜその一年前に自らの墓所をわざわざ“鏡の中 のチェス・ボード”にするのか。  カラデックはこの矛盾を無視してかかる。

 1932年に定跡を発表することは、ルーセルにとって初めから決まっていたことなの だと僕は思う。規則狂ルーセルは、現実と盤面とが形成するある規則を示したかったの である。

 「32-32」  「R-R」  つまり、この謎めいた規則、謎めいた符号を。

 その規則、その符号を解読すればむろん「1929年」が現れる。  「32-32」は白黒両陣営。  「R-R」はデュシャン・タルタコーバ戦の十七手目を指すからだ。

    



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