55-6-1(ルーセルの公式 12/19)



 自らの書法の秘密を明かした『私はいかにしてある種の本を書いたか』とともに、ルーセ ルが死後、関係諸氏に配ることを指定したチェス記事はすべてタルタコーバの手によるもの で、三種類ある。  まず、『ビショップとナイトによる王手詰み(レーモン=ルーセル定跡)』に関する二つ の文章、『キングの決闘』、最後に『レーモン・ルーセルと文学におけるチェス』。  1933年2月号の『キングの決闘』は、その年の一月にパリで行なわれたルーセルとロ ミーによる“分析的なゲーム”の解説である。フランソワ・カラデックの『レーモン・ルー セルの生涯』によれば、ルーセルは“カフェ・ド・レジャンスあるいはパリのクラブで”ロ ミーというチェス・プレイヤーと知り合いになり、ある詰手について質問したのだという。  カラデックはさらに“ルーセルは、対局を自分の勝利に導くことができなかったのでロ ミーに詰手を発見するように要求した”とも言っている。  つまり、ゲームの分析に話を変えてごまかしたという意味だ。  ともかく、図を見てみよう。


図16
 さて、問題はまずもってこの盤面にはない。むしろ、「引き分け」と(タルタコーバによ って評定された)見出しを付けられた短い末尾の文章である。  そこにはこうある。 『レーモン・ルーセルの表現によれば、升目というものは(特にポーンだけのfin<目的地? 目的筋?>においては)空間のなかに投影された時間をあらわしている』  カラデックが“ルーセルの反省”と呼ぶこの短い文。  かつて、55-3-2でも紹介したものだ。  だが、今回はカッコの中に疑問符を付けてある。

  『レーモン・ルーセルの生涯』では、この部分を「チェスボードの升目は、(とりわけポーン だけの目的にあっては)空間に投影された時間を表している」と訳してあるし、僕もこれまで その訳に準じて考えてきた。  だが、チェス記事を口訳してくれた赤間啓之さんは同じ部分に関して“うーん、目的とは 訳せない何かなんですが……”とかつて決定を留保したのだった。  問題は「surtout dans les fins de pions seuls」の中の、finにある。finは確かに 「目的」とか「終わり」と訳すしかない言葉である。そう考えて僕は今の今までまさにfin (目的)を見失っていたのである。

「とりわけポーンだけの目的にあっては」と考え、そのうえで「空間に投影された時間を表 している」と考えてしまえば、つまりそれは“ポーンだけが後退出来ない駒だ”という結論 しか出てこない。後退出来ない以上、ポーンの位置はゲームの進行時間の流れに従う。前進 する時間がマス目に投影し、空間化するという凡庸な意見だ。  だが、なんのことはない。  昨日、仕事で飛行機に揺られながらふと考えてみると、唐突に出てきた答えはまるで違っ ていたのだった。

「les fins de pions seuls」とはつまり、「ポーンだけの終盤」のことだったのだ。  キングとポーンしかない終盤戦、たとえばデュシャンの『調停される』が扱っていたのと 同じ状態を、チェスではポーン・エンディングといい、あるいはポーンとさえ言わずにエン ド・ゲーム(ベケットの戯曲『勝負の終わり』は、原題がまさに『エンド・ゲーム』なので あって、デュシャンの思考とも必ず重なるはずなのだが、なぜか日本ではチェス抜きで語る 人が多い)と呼ぶのである。  事実、『調停される』の最初の一行目はこうなのだ!

「我々の仕事の目的は、les finales de P seuls(ポーン・エンディング)におけるキン グの役割を研究することである」

 ルーセルとロミーのゲームでは、ポーン以外にナイトがあるのだけれど、つまりルーセル はそのナイトを無視するようにして、こう言ったのである。

「マス目というものは(特にポーン・エンディングでは)空間のなかに投影された時間をあ らしている」

 ナイトをあえて無視したところが重要である。  もちろん、前年デュシャンがそのポーン・エンディングについての研究を発表しているか らだ。まさしく「les finales de P seuls(ポーン・エンディング)」と語り始めながら。 一方、ルーセルは盤面にあるナイトをさえ無視して、その『調停される』と同じような言葉 でしゃべり出した。  そして、タルタコーバはその言葉をなぜか忠実に記した。  ルーセルは「ポーンの前進する時間がマス目に投影し、空間化する」などと平凡なことを 言っていたのではない。  まさに……

 デュシャンが扱っていたような「勝負の終わり」において、マス目が“空間のなかに投影 された時間”をあらわすというのである。

 しかし、ポーン・エンディングに特徴的な「時間・空間」とは、では一体何なのか?

“とりわけポーン・エンディングにおいて、時間が空間に投影する”

 少なくとも、これはルーセル流の『調停される』への一撃だったのではないだろうか。  実際的な研究大著を出したデュシャンに対して、ルーセルは時空論を考えた。  同じ『レシキエ』社から『調停される』を出版したデュシャンが、このルーセルの摩訶不 思議な一刀両断を読んでいないはずもない。

 やはり、ふたつのキングは1932、1933の両年に確かに決闘していたのだ。    



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