55-2-5(ソシュールのチェス)



 一方、ソシュールにとって、チェスは何を意味していたのだろうか。光と鏡という絵画の核 心が彼の言語観であったとはとうてい思えない。

 たとえば、同じくチェスプレイヤーであり、言語を語るにあたってチェスの比喩を多用した ヴィトゲンシュタインにとって、語は駒である。

「語とチェスの駒には類似性がある。——ある語の使い方を知っていることはチェスの駒の動 かし方を知っていることに似ている」

 むろん、ここには”動かし方”という規則への言及が入り込んでいるから比喩は繊細なもの になっているのだが、あえて乱暴に切断してしまえば、やはり語=駒である。語の使用を言語 ゲームとしてとらえるのがヴィトゲンシュタインである以上、この切断は誤りとは言えまい。

 しかし、他方ソシュールの比喩は異様に抽象的である。チェスにおける駒が言語にとっての 何で、盤が何と対応するのかがなかなか明らかにされない。だが、それがソシュールを救って いる。少なくとも彼が実体論的な考えの中にいないことを示しているからである。

 ソシュールにとって駒は実体的ではない。語られるのはたいていが駒の移動そのものであ る。エングラー版講義(第三回講義 コンスタンタンのノート)ではこうなる。

「チェスゲームにおいて指し手は駒を動かすことにより、体系上に移動を生じさせ、作用を起 こさせようと意図している。ラングが一手指した場合(通時的な変化)、ラングはあらかじめ 何も意図していない。

 gast⇨gste

 hand⇨hnde

 tragt⇨trgt

 駒が他の駒と向き合っているのは自然発生的でまた偶発的なものである。だが、gast/gste という駒は単数形、複数形を意味する」

『一般言語学講義』では第Ⅰ編一般原理の第三章、もっともくわしくチェスの比喩を語る箇所 に組み込まれた講義内容である。

「gast/gsteという駒」という明確な表現は珍しい。が、ここでも二つのものの変化があって こそ駒という言葉が与えられる。決してgastというひとつの語が駒だとは言わないのだ。 「gast/gste」と対になってこそようやく駒と言うことが出来るソシュールのチェスは、した がって変化それ自体のみが存在する抽象的なゲームである。ヴィトゲンシュタインが「駒= 語」とするのに対して、おそらくソシュールは「駒=変化」としか考えていない。これは異様 な比喩であり、異様なチェスだ。

 ソシュールのチェス盤には通常想像されるような駒の群れが存在しない(ということは、実 をいえばチェス盤さえない)。だが、見えない駒は強い関係性で引かれ合っており、どこか に”自然発生的でまた偶発的”な変化が起こると、その時初めて変化そのものが対象として立 ち現れる。

 変化を駒としたチェス。

 チェシャ猫の笑いのようなチェス。

 関係の強度だけがうごめいているチェス。

 だが、これは決して難解な観念ではない。将棋を指す人なら誰でもわかるだろう。布陣を前 にすれば、どんなプレイヤーも頭の中で盤面を離れてしまう。駒ひとつひとつの実体よりも、 その移動による力関係だけが脳の中に浮かび上がる。先を読むとはそういうことだろう。そ の”先を読むチェスプレイヤーの頭脳の状態”でひたすら現在を見ることが、ソシュールに とって言語を考えることである。言ってみれば、言語の布陣を見る共時的な視線の中に、すで にあらゆる変化の通時的可能性がうごめいている。

 



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