55-2-6(大ガラス)



 ルーセルが光と鏡の純粋ゲーム、いわばチェス盤のないチェスを始めてしまったことを、も しもデュシャンが感じとっていたのだとしたら、当然『大ガラス』は後手である黒の第一手と なる。つまり、デュシャンは白ルーセルの着手を受け入れてしまったのだ。

「私のガラス作品<彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも>を生んだ根源はルー セルだった。彼の『アフリカの印象』から、私は普遍的な方法を学んだのです」

 このデュシャンの発言はもちろん、絵画芸術の中に言語を導入することを指しているはずな のだが、ここではまず黒デュシャンの第一手宣言として受け取っておきたい。

 四次元からの影を射影幾何学によってガラスにとどめおくこと。『大ガラス』はそんな疑似 科学的な営為であるとも言われるし、実際にデュシャンがそう示唆してもいる。前回書いたよ うに、疑似科学的思考はまたルーセルを激しくとらえていた。しかし、ここではひたすらチェ スだけを媒介に考えてみよう。

 では、チェス的に『大ガラス』を見たとき、最も気になる部分はどこかといえば、ガラス上 部の左側に描かれた機械状の「花嫁」となる。デュシャンによって、「原型樹木」とも「処 女」とも「雌の縊死体」とも様々に呼ばれるこの部分は、少なくとも今挙げた呼び名 に関してすべてチェスに関連している。

 まず「原型樹木」だが、『囲碁の民話学』(大室幹雄)によれば、チェスは”すべてのケル ト語で文字通り木の知恵の意味”を指す。 また、「雌の縊死体」と訳してしまうといかにも おどろおどろしいが、海外のチェス用語には「ハンギング・ポーン」という言葉があり、盤面 中央あたりに援護なく取り残されたポーンを単純にそう呼ぶのである(迷いポーンとも吊られ ポーンとも訳せるだろう)。

 いったんポーンと同定して考えてみれば、『鏡の国のアリス』よろしく相手盤面の端を目指 すポーンは、まだ誰にも取られていないという点で「処女」であり、いずれは聖婚によって女 王になる「花嫁」だともいえる。

 そう考えていくと、『大ガラス』に描かれた上部左側の機械から右へと吹き出す煙のような ものが、ポーンが女王に変化するその瞬間のように見えてくる。ちなみに煙の中には三つの四 角い「掲示板」がブランクとして残されている。チェス的にいえば、端に到達したポーンはキ ング以外のどんな駒にも”成る”から、生成変化のゴールが必ずしもクイーンとは限らない。 すなわち、プレイヤーが「……」と宣告し、その意志を提示しなければ、ポーンは行方を知ら ぬ変化の中にあり続けるのである。

 僕にはその”成る”過程、同じ形状の駒がなぜかある瞬間から意味を変化させることの中に デュシャンの四次元思考が関係しているような気がする。なぜなら、我々のうちの誰一人とし てポーンがクイーンに”成る”瞬間を同定することが出来ないからだ。

 将棋なら歩を裏返して盤面に置いた瞬間である。その時、赤い文字で象徴される光が現れ る。だが、チェスにおいては違う。ポーンをポーンのまま置いたのか、ポーンをクイーンとし て置いたのかは誰にも言うことが出来ない。駒の尻が盤面に触れた瞬間が女王生成をあらわす のか、それとも宣言を始める声の最も先端部が聞こえたときなのかがわからないのである。

 それまでポーンは最もひよわい駒として盤上で力を生成している。力そのもの、強度そのも のとしてジンジンと震えている。

 こうした不安と栄光とエロティシズムの一瞬、その過程、変化そのものが、白ルーセルの差 し出したチェス盤なきチェスゲームに対する黒デュシャンの第一手であったとしたら……。

 



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