NOVEMBER

ダリア/月下美人

●十一月のベランダ/ダリアの救急処置体制(1997,11,11)

 今年のぼさ菊は去年よりもまとまった形で咲いた。
 結局水やりと肥料に気を遣っていただけで、どうボサボサしようがかまわなかったのだが、そこはやはり放任主義家庭の子供である。十月の終わりから十一月中旬まで、やつは全体としてなんとか球状に見える格好でたくさんの黄色い花を開かせたのである。
 あるいは、俺が不格好に慣れてしまっただけだろうか。
 ベランダではシャコバサボテンも蕾をつけ始めている。去年の苦労が身にしみて、今年は短日処理をしないつもりでいたが、やはりシャコバもぼさ菊同様その放任を肌で感じたのか、勝手に大きな蕾を赤く染め出したのである。
 だが、すべてが放任でいいというわけではない。ふと見れば、弱り切ってしまった鉢どももおり、俺の救いを待っていたりする。
 以前ダリアを買った。窓際に置いてやったのだが、花はすぐに弱り、しぼんでしまった。俺は即座にそいつをベランダ送りにした。外の風でも浴びて野性を取り戻して欲しかったのだ。
 幸い茎がひょろひょろ伸びてきた。確か夏のことである。これならよしとばかりに俺はダリアにたっぷり水をやり、放っておいた。 ところが、みるみるうちに伸びた茎がしなって蛇状になり、鉢の外に首をもたげ始めた。野性というよりは、青白い顔をしたノッポの病人である。実際、茎は細く、色も薄くなってしまっている。
 こうなると俺はいったん興味を失う。なぜだかわからないが、力なく伸びた茎というものに根本的な嫌悪があるらしいのだ。これで先に花でもつけていれば、逆に”なんという頑張り屋なのだろう”と愛をほとばしらせることも出来る。だがしかし、なんの成果もなくひょろひょろし、しかもぐんにゃりしてへたばっている輩が俺には許せないのである。
 それでダリアは”あっても、ないような感じ”の鉢に成り下がった。もちろん水はやる。だが、その際にも俺は確かにそこにある鉢をないもののように扱っていた。ありもしないものに水をやっている感じ……。いわゆる精神分析学でいう『否認』の機制が働いてしまうわけである。
 おかげでダリアは弱った体を鉢の外に伸ばしながらひと夏を過ごし、つらい秋を迎えつつあった。
 だが、昨日、ダリアは俺に発見し直された。俺は突然、”ないはずのものがあった”ことに気づいたのである。
 おそらく、俺はベランダに冬の到来を感じたのであった。どの鉢を室内に取り込み、どの鉢を寒風にさらすか。その判断はベランダーを緊張させる。時期や種類を間違えたら最後、鉢は死んでしまうのだし、つくはずの花もつかなくなるからだ。さらに枝の切りつめやら肥料の最終確認など、冬の前にしておくことは多い。
 その緊張感あふれる選択の中で、ぐんにゃりダリアは唐突に俺の目の前にあらわれたのだった。こいつはどうしたことだ! 俺は心の中でそう叫びさえした。これほどまでに弱り、よく見ればわかのわからない虫にたかられて白茶けてきているダリアを、なぜ誰も助けてやらなかったのだろう!
 俺はその非情な男を責めた。その怠惰を責め、無知を責め、しかし周到に憎まずにおいて、救いの手を差し伸べようとしている自分だけを愛した。ようするにダリアは俺の自己満足のためだけに発見され、救われたのである。
 俺はベランダの隅っこにあったダリアの鉢を部屋からよく見える場所に移し、添え木を数本あてて茎をまっすぐにした。この間、わずか四十秒であった。次に俺は肥料のアンプルを取り出し、先を歯でちぎった。中の肥料液が少し口の中に入ったので、まるで西部劇の主人公が噛みタバコを吐くような感じで吐き捨てた。
 普通にハサミで切れば、人間たる自分に植物の肥料を与えるような馬鹿をしなくてすんだのだが、俺は手早い看護をする自己に陶酔していた。すぐさま、防虫スプレーをかけた。風が吹いてきて、かなりの量が俺の体にかかった。しかし、なにしろ相手は緊急患者である。どんなことがあっても、俺は耐えなければならなかった。
 さらに、枯れてへばりついた葉をむしった。むしりついでに健康な葉もむしっていた。事態がさし迫っている以上、その程度のことは許されるべきであった。
 こうして、たった三分ほどの間に、ダリアは完全なる治療を受け、ベランダの中で最もいい場所に立つことになったのである。
 俺は今もダリアを見ている。常に監視出来る場所にある以上、二度と茎をへたばらせ、わけのわからない虫に痛めつけられることはないはずである。そんな憂き目にあっていたダリアを俺は救い、冬を越させてやる気概に満ちている。
 だが、それでもひょろひょろのままならば、やつはまた”あっても、ない”鉢として不遇の生涯を送ることになるだろう。


●十一月の月下美人/徒長の怪物(1997,11,23)

 月下美人とのつきあいも長くなってきた。多くの男たちと同じく俺もまた、それがサボテンだと知らぬうちから、甘い幻想を抱いていたものである。
 他に男心をくすぐる花の名前といえば愚美人草。こう書いてみると、しょせん俺は”美人”というところに反応しているだけである。まったくもって、なんの詩的センスもない。
 せめて女郎花とかイヌノフグリとか、はたまたユキノシタとか、そういう名前に心ひかれたりするひねりがあってもよさそうなものだろう。
 しかし、こういった方面に関して俺にひねりはない。その手の微妙な趣きはどうでもよく、愚美人草、月下美人と非常にはっきりした主張にのみ気持ちを差し向けるのである。なにしろ、みんなが美人だと言っているのだから、基準はクリアしているはずだ。見て損はなかろう。
 そう思った俺が早くから月下美人を家に招き寄せていたのも当然のことといえる。前にも書いたような気がしているのだが、俺はある日なじみの花屋に入り、
「月下美人ありませんかね?」
 と聞いたのだった。以前よく花屋の店先で月下美人を目撃しており、いつか買わねばならないと心に決めていたのだ。
 だが、いかんせん置き場所に困っていた。 あいつは丈が高くないと格好がつかない。身長三十センチの美人もあるまい。
 それがいい場所を見つけた。窓際のコーヒーをどうにかこうにかずらせば、腰くらいの高さのタンスの上に直径二十センチほどのスペースが生まれるのである。
 このへんの機転が、つまりは都会の園芸家の腕の見せどころだ。植物に与え得る面積をどのように広げていくか。もはやベランダーの至上命題といってもいい。
 ともかく、俺はいそいそと花屋に行き、そこに月下美人があるかどうかを聞いたのだ。 すると、花屋は店の脇の物置きから月下美人を出してきたのだった。季節外れになってしまい、葉のあちこちからひょろ長い新芽を出している売れ残りの月下美人……。
 果たしてそれを美人と呼んでいいのか、一瞬俺は迷った。なにしろ、相手はホコリをかぶり、泥をかぶっている。昔からメガネを取ると美人というヒロインは多いから、その手合いか思うとそうでもない。ワカメのように長く伸ばした手足の表面からブツブツ飛び出しているのは、根づまりから起こる虫っぽいトゲトゲである。生意気に伸びた新しい葉はあまりにも細く長く、まるで弱ったカメレオンの舌だ。
 怪物である。それはまさしく、美人の時を過ぎてしまった怪物そのものなのだ。
 だが、それが花を咲かせる日を俺は夢見ていた。夜の闇の中で、うつむきがちの白い大きな花びらをほころばせ、朝になると眠り込んでしまう美人。薄い葉をぐんぐんと伸ばし、天に届かせようとする美しき植物。俺はその夢にひたりきり、思いがけず安く売ってくれた月下美人を持って花屋を出た
 ところが、俺の家に来た怪物はワカメ的な葉を伸ばすばかりで花などつけなかった。その間、やつの怪物的な容貌は次第に凄みを増した。新芽はびゅんびゅん伸び、細長いままで葉になった。伸びたままならいいが、自分で責任を取らずにうなだれたりする。長いもので一メートル弱の葉もあった。それがうなだれてみたり、トンチンカンな方向目指してばく進したりする。実験で謎の光線を浴びた動物のような気がしてきた。
 俺はとうとうそいつを窓際から移動させた。怪物のわりに暑さに弱いというキャラクターもあって、書斎がやつの新しいすみかとなった。そう強く日もささないが、その分一日中薄暗い部屋である。風通しがもうひとつなので、怪物の蒸れ具合が気になった。もしも腐ったら化け物以上に恐ろしかった。
 幸い、月下の怪物は腐ることはなかった。いや、正確にいえばあちらこちらが黒ずんだのだが、怪物にしてみればたいしたことがないだろうというのが俺の判断である。そんなことごときで怪物が倒れるはずもない。
 しかし、うなだれる葉はてきめんに多くなった。体じゅうから飛び出した細長い葉が四方八方にしだれていた。どうやら怪物はがっかりしているようであった。一人で暗い実験室に入れられ、暴れる気も失せたという感じである。だからといって、元の位置に戻すことは出来なかった。その位置にはすでに新しい鉢植えが鎮座していたからだ。
 こうして、怪物は今もひっそりと俺の書斎に潜んでいる。正直なところ、俺は近頃すすんで書斎に行く気がしない。おっくうというか、どうも雰囲気が暗いのだ。つまりそこはもう書斎などではなく、静かにメタモルフォーゼを遂げていく化け物の洞窟、奇怪なモンスター・ハウスである。
 月の出る夜は特におそろしい。何本もの手足を持った怪物が、突然のそのそと動き出すような気がするのだ。

  


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