MARCH

ベランダ/金魚

●三月のベランダ/消え去るもの(1997,3,24)

 忙しくしていた三月のある日、たった一日だけだがベランダに精力を注ぐ時間が取れた。これまで、必死に水をやったり、肥料を加えたりしていただけだったので、この時間はなんともうれしいものだった。
 気にはなっているのだが、世話の出来ないつらさ。これは子沢山の貧乏人が身にしみて知っているものである。そして、短い時間ではあれ、愛する者の身なりを整えてやるうれしさ。それは忙しい父親が授業参観に間に合ったのと同じくらい価値がある。
 俺はまず、以前から考えていた土の総入れ替えに着手した。なにしろ、多くの鉢が栄養枯れの状態にあり、いつ飢え死んでもおかしくない状況にあったからである。
 プラスティックのたらいをベランダに運び出し、そこに黒土だの苦土石灰だの鶏糞だの腐葉土だのを混ぜ入れていく。植物図鑑的には当然草木の種類によって土のあれこれや石灰の配分などがあるのだが、俺のベランダにおけるルールではどの鉢も一緒である。しかも、苦土石灰を混ぜたら普通、その土を風にさらしたりするはずなのだが、我が家にその余裕はない。出来たら即使用。つまり、風呂から出た途端に就寝を要求される子供みたいなものだ。それで風邪をひくようなガキなら要らん。
 おおかた混ぜ終えると、俺は飢餓状態の鉢をたらいのそばに整列させた。とりあえず、ムクゲの植え替えから始める。鉢から土をかき出してムクゲを取り出し、その土を右手でよく混ぜる。左手はムクゲをつかんだままだ。まるで、戦後間もなく米兵からDTTをかけられる子供のようにして、ムクゲは宙を浮いている。
 続いて、混ぜ終えた土を元の鉢に戻す。もちろん、その中にムクゲの根を丁寧に据えてやる。この間、ほぼ五分。ベルトコンベアー方式というか、まあドライブスルー植え替えみたいな早さである。
 次に藤、あるいはローズジャイアント。そしてこの三年というもの、ちっとも育たないミニバラ、はたまた勢いだけはいいラベンダー。
 こうして、次から次へと土をかき出しては混ぜていくうち、全体の色がわけのわからないものになる。後に回されれば回されるほど、与えられる新しい土の正体が不明になっていくのだ。しかし、文句など聞いている暇はない。俺はせっせと土を入れ替え続けた。
 ところが、である。そうやって、各鉢から植物を出していくと、明らかに死んでいる根に出会うことになる。例えば、去年ベランダにデビューした葉牡丹だ。なんだか茎が茶色くなっているのは心配していたのだが、いざ植え替えを始めると根が乾いており、もはや残骸のようになっている。
 もしくは、ボケ。この一年ばかりうんともすんとも言わないので、うすうすは気づいていたのだが、どうも根の調子が悪い。漢方薬みたいな縮れ方をしているし、全体として軽すぎるのだ。
 総体的に、植物の生死は重さでわかる。なんとなくまだいけるのではないかと思われても、鉢から出して持ってみると肩すかしを食わせるような感覚でフワリとする。 その肩すかしを感じる度、俺の肩ががっくりと落ちることになる。死んでいることを認めざるを得ないからだ。このあたりの事情は動物とは正反対である。やつらの死は、あのぐったりとした重みで伝わってくるからだ。
 ひどいのになると、フワリどころか消えてしまう。例えば、今年三年目に入ったリンドウだ。こいつは去年の暮れから紫色の花さえ咲かせていたのだが、さて土の入れ替えだと思って鉢をひっくり返してみると、跡形もない。まさかと驚いてたらいに手を突っ込み、流れ落ちた土をひっかき回すのだが、死んだ根の塊さえないのだ。狐につままれるとは、こういう感じなのに違いない。
 だって、こないだまで元気だったじゃないか! そう叫んでも無駄である。茎や根はまるでテレポーテーションをしたかのように消滅している。土に帰るとは言うが、まったくお早いお帰りだ。もう少し腰を落ち着けていてくれてもよさそうなものである。
 昔、同じ感覚を黒ユリの球根で経験したことがあった。三つの鉢に分けて植えた二種類のユリのうち、黒ユリの鉢だけが音沙汰なく静かなのだった。まあ、いつか芽を出すだろうとたかをくくっているうち、長い時間が経った。他のユリなどすでに花を終え、茎を変色させている。疑問に感じて鉢をひっくり返してみた。何もなかった。球根が腐った跡さえなく、黒ユリは消え去ったのである。あの不条理感はいまだに忘れない。
 同じことがリンドウでも起こったのである。それは消えた。なんの形も匂いも残さず、なんというか葬式も何も私一人ですませましたみたいな潔さで消えたのだ。寅さんが映画の最後に団子屋から消えていくような感じである。
 このようにして、我がベランダからは幾つかの植物が消えていった。そして、多くの植物たちが新しい土を強引に与えられ、新たな春に向けて試練を乗り越えようとしている。
 だが、俺にはまだかすかな未練がある。あのリンドウや黒ユリがどこかからひょっこり戻ってくるのではないか、とありもしないことを考えてしまうのだ。
 ベランダに置かれたたらいにはどっさりと土が盛ってある。風にさらし、陽光を浴びさせるためではない。戻ってきたやつらにもまた土が必要だからなのだ。


●三月の金魚/白一号の死(1997,3,25)

 白一号が金魚鉢の底にごろりと腹をつけていた。
   俺が仕事で九州から帰ってきたその昼間のことである。
 家を空けたのは俺の三十六回目の誕生日の日であった。
 四、五日前から水は汚れていた。藻で緑に染まり、金魚が見にくい状態だったのである。
 だから、俺は帰ってくる日に替えてやろうと思っていた。
 だが、その前にやつは死んでいたのである。
 白一号はしっちゅう赤一号をいじめていた。だから、死ぬにしても赤一号だろうと思っていた。しかも、衰弱の気配はみじんもなかった。
 それが俺の誕生日に死にやがったのである。
 一体どういうことなのか。
 まるで信じられぬまま、俺は白一号を網ですくい、すでに二匹のメダカが埋められた(俺は新しい水草のためにメダカを五匹買ってきていたのだった)ベランダの大鉢の中に横たえた。水を入れ替え、赤一号を見た。いじめっ子がいなくなって安心したのか、それとも病が進行しているのか、生き残った赤一号はじっと動かずにいる。
 どうも弱った。
 寂しい気がして、長いこと金魚鉢を見ていた。別に愛してもいなかったし、それどころかいじめっ子だったがゆえに俺に憎まれてもいた金魚である。それがいないことがなぜこう空虚な感じを引き寄せるのかがわからなかった。
 絵的なバランスかもしれない、と俺は思ってみた。
 何度も思ってみるうち、やもたてもたまらなくなって俺は金魚屋まで出向いていた。
 今、金魚鉢にはあのメダカどもに加えて新たに五匹の小さいやつがいる。その横でふらふらしているのは、白い丹頂である。赤一号にくんくん匂いをかがれるようにしている。今度はこいつがいじめられそうで、俺はひどく心配だ。
 丹頂がではない。いじめているやつが死ぬのは、もはや俺の知識だからだ。


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