55-6-9(回文と鏡 12/31)



 いや、そんなことではない。  前項で僕は余計なことを書いていた。文字が心理の中に浮かぶということは一般的では ない。これは同音異義語が他出する漢字文化ゆえの考え方であって(「際」なのか、「差 異」なのか、「才」なのかを我々は文字を浮かべることで判断する)、テヴォーには関係 がない。

 訳書に出ていた図を素直に再現しよう。


図23


 この回文に対掌性があるとしたら、いったいどこに鏡を置けばいいのか。そう僕は考え
てみたのであった。
 そして、答えはおそらく“ここに存在するのは「鏡のない対掌性」である”という一文
なのだ。テヴォーもくわしく語っていないが、彼の直観の中にあるのは、“回文というも
のは鏡を必要とせずに鏡像性を持つ”という特徴なのである。
 たけやぶやけた
 右から読んだ一文は確かに左から読んだ文に対して対掌性を持っている。それは似ては
いるが重ね合わせることが出来ない。裏返して重ねようとしたとき初めて、一文は鏡像的
な対掌性をあらわにするだろう。
 まるで下の図のように。

図17

 
 重ね合わせの作業で初めて鏡像性があらわれるということは、「たけやぶやけた」の文
そのものの中にあらかじめ「鏡」はないということである。それは回文というアナグラム
の奥底に可能性としてひそんでおり、裏返して読んだときに出現する。
 逆にいえば、“回文というものは鏡を必要とせずに鏡像性を持つ”のだ。
 正しくいえば、対掌性を。

 鏡のない場所にも、鏡像性・対掌性が存在することを確認して、さらに進もう。  そもそも、チェスもまた“鏡のない対掌性”があらわれる場所だったのだから。

 けれど、進むといって一体どこへ?

    



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