55-4-3(チェスという思想2 99/11/1)



 四句否定。それは仏教論理学の要諦である。

 松岡正剛氏によれば(昔チェスについて考えていたことをファックスで問い合わせ たのだ)、このナーガルジュナ(龍樹)の著作中にある観念は、やがて空論、中論と なって波及する。
「私であることはない/私でないこともない/その両方であることもない/その両方 でないこともない」
 仏教が否定の哲学といわれることの好例である。

 もうひとつ、松岡氏もファックスの中で指摘していた「空・仮・中」の思想、“天 台の三諦論”が、たまたま読んでいた熊沢蕃山の著作中に出てきたので日本思想体系 から引いてみよう。
「心性の寂然不動な面を中、三千世界の亡滅する面を空、亡滅するが現実に存在する 面を仮と名づけるが、いずれも仮りの名称で、一切は即中即空即仮として三諦円融す べきである」
 即中即空即仮。
 三諦論はそう言う。  四句否定にせよ、三諦論にせよ、根幹で目指されているのは間違いなく“矛盾を一 挙に把握する脳”である。仏教的には矛盾と言わないのだとしても、不動なものと滅 するもの、そしてなおかつ仮に存在するものを一挙に(即中即空即仮)受け入れる脳 こそが修行によって求められていると考えてよい。「私であることはない/私でない こともない/その両方であることもない/その両方でないこともない」という否定を 順を追って論理学的に、または哲学的に解きほぐすことは可能だろう。だが、すべて は「即」でなければならない。

 僕はもちろん仏教哲学にくわしい人間ではない。だが、目指されている脳の状態が 何かに似ていると感じることだけは出来る。面で思考する脳からの脱却と言えばいい だろうか。いや、ことはおそらく三次元と脳との関係にまで行き着くだろう。
 つい先日、少しだけおかしなビジョンを想像した。この“一挙把握”について考え ている時である。まず、南の島の浜辺に僕が立っており、夕日を見ているのである。 そこに上から椰子の実が落ちてくる。ところが、同時に椰子の実を腹で受けている僕 もいるのである。少なくともタテ、ヨコがおかしいのだ。立っている僕と横たわって いる僕が同時におり、しかも空はいくつかの区画に分かれて奥行きが様々にずれてい る。
 むろんこれは三次元に限定された人間の、操作的な想像である。三次元をわざとず らして想像したがゆえの凡庸な画面だ。しかし、キュビスムがどんな観相を目指した かの一端は理解することが出来る。
 デュシャンはだが、もっと先まで行こうとした。
 ダビンチが考えたのは“世界把握をするにあたって絵画はどのようにあるべきか” であったはずだ。そのために遠近法を確立してみせた。ところが、その後にわんさか と出てきた絵描きの誰一人として、世界把握としての絵画を根本的に考えなかったの ではなかろうか。遠近法をただの技術として受け取り、三次元を二次元に閉じこめる にあたっての哲学を忘れた。二次元が三次元に見える絵画の技術の嘘を、ただ漫然と 継承してそう見える罠と脳、あるいは世界との関係についてを捨て去った。
“網膜快楽的”な絵画を馬鹿同然とみなしたデュシャンは、世界を把握する技術とし ての絵画を目指した。そして、それをすっかり諦め、やがて諦めをユーモアで示し続 ける。ユーモアは人類の脳の限界を示すものでもあり、そのぎりぎりの場所まで追い つめたことの証左でもあったのではないかと僕は思う。
 ユーモアは彼にとって、絵画の不可能性の継続的な証明であった。
 また不可能性に勝てなくとも、負けないでいることだけは出来るという態度表明で あった。

 しかし一方で、あの四句否定のような、三諦論のような脳の状態は限られた人間に 可能ではあったはずだ。
 仏教はそれを悟りと呼んできたはずだからだ。
 そして、悟りのような三次元脱却は少なくともチェスという修行においてあり得 た。
 デュシャンなら、その状態をなんとかあらわしてみようと思いたったはずだ。

     



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