55-2-11(オポジションと遺作)



 一九三二年にデュシャンが発表した大著は、チェス用語でオポジション(見合い)と呼ばれ る状況をくわしく研究した書物である。彼自身が”なんの実際的な益にもならないだろう”と 言う通り、それは終盤戦での特殊な布陣を前提としている。

 盤面にはすでに白黒のキングとポーンが数個しか残っていない。ポーンは相手陣営の端でク イーンになれるのだから、一見地味に見える布陣は実のところ可能性に満ちている。だが、 デュシャンの研究したのは、それらポーンが自陣キングと協力して互いに牽制し合い、どちら も動きようのなくなった状況である。

 相手にまったく動くべき手がなければ、チェスでは引き分けとなってしまう。だから、こち らは動きの余裕を与えつつ、しかもその動きが相手の劣勢を保証するように仕向けなければな らない。この”相手が劣勢を知りながら、そちらに動かざるを得なくする”手を、チェスでは ツークツワンクと呼ぶ。

 デュシャンの大著は、このツークツワンクがキングのオポジションを誘導する状況の研究で ある。相手をハメるツークツワンクによって、敵のキングは自陣のキングとひとマス開けて向 かい合わざるを得なくなる。そして、いったん向かい合ったら最後、キングは互いにその「見 合い」を続けたまま、ポーンのにらみが効いているマス目をよけて右に左に、上に下にと必ず 対になって動き続けざるを得ない。

 この時、「見合い」を外した方が負けになる。複雑な勢力争いをぬって相手のポーンが飛び 出し、究極的にいえばクイーンに昇格してしまうからだ。したがって、盤上ではキングが二 人、死を賭けた退屈なワルツを踊り続け、ポーンたちはクイーンに生成変化する可能性だけを 秘めて体を熱くしたまま、その永遠のワルツを見守る以外にないのである。

 ワルツによってキングが遠ざかれば、ポーンは援護なきハンギング・ポーンとなる。つまり ポーンはエロティックなワルツを見守るだけの「独身者たち」(男)の立場と、クイーンに変 化する欲望に満ちたまま孤独に吊されている「雌の縊死体」(女)の立場を、まさに光の明滅 のように繰り返すのだ。あたかもローズ・セラヴィとして女装するデュシャンのように。

 覗き穴を介して「見合い」の形を強制する遺作は、だから我々を無力なキングに変えてワル ツを踊らせ、ガス燈の明滅で目を射るための一手だということになる。

 



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