55-1-9(ルーセルと四次元)



 ルーセルはチェスを始めた途端、雑誌『レシキエ』(フランス語でチェス盤の意)にお かしなことを発表し始める。「チェスボードのマス目は、(とりわけ歩兵だけの目的にあ っては)空間に投影された時間を表している」

 時空間に関する俗流科学のような発言。確かにルーセルはかねがね、十九世紀末から二 十世紀初頭にかけて大流行した俗流科学に興味を持っていた。秘教主義的科学者カミーユ ・フラマリオンの家に招かれ、そこで出されたビスケットを持ち帰るとラベルをつけて保 存したという逸話があるほどだ。

 であるからには、ルーセルのチェスは四次元の思考に関っていたはずである。そして、 この発言に最もよく脅威を感じ、最もよく狂喜した人物はたった一人しかいない。  チェスマスター・デュシャンその人だ。

 なぜならデュシャンこそ、「大ガラス」において”射影幾何学的に四次元を三次元に投 影し、さらにそれを二次元に閉じ込める”ことを構想した人間だったからである。

 ピエール・カバンヌとの対話で、デュシャンはその頃のルーセルについて語っている。 「PC あなたは彼に会ったことがあったのですか。

 MD いちど、ずっと後に、チェスをやっているのをカフェ・ド・ラ・レジアンスで見か けたことがある。

 PC チェスがお二人を近づけたかも知れないのに。

 MD そういう機会はありませんでした。彼は、すごく”時代遅れ”の恰好をしていまい た。ハイ・カラーをつけ、黒ずくめの服で、まったくのアヴェニュ・デュ・ボワ族(古風 なこと)でした」

 この言葉を信じるならば、ルーセルに多大な影響を受けたデュシャンは、ルーセルの実 際の姿を彼の死の一年前に初めて目にしたことになる。長い年月をかけてチェスに没頭し てきたデュシャンはどれほど驚いたことだろう。相手はデュシャンのお株ともいえるチェ スを、黒ずくめの異様な姿でやっているのだ。

 しかも、突然四次元のことを言い出す……。



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