55-1-10(ソシュールとチェス)



 ソシュールにとってのチェスの姿を最も鮮明に示すのは『沈黙するソシュール』(前田 英樹編・訳・著)の中にある「ホイットニー追悼」のメモである。

 一八九四年、言語学の先駆者ホイットニーが亡くなり、アメリカ文献学会からその追悼 文を依頼されたソシュールは、すぐに七十枚に及ぶ草稿を書いたままそれを未完で放置し てしまう。ある種劇的なソシュールの沈黙の始まりだ。その草稿の中で、彼は”言語に対 する思索”についてこう書く。

「むしろ、抽象的な思索に向いている。チェスの布陣にあるような、ああいう思索に。私 はこの比喩を手放さない」

 私はこの比喩を手放さない。

 ソシュールはそう言う。

 言語のいわくいいがたい存在をかろうじて言い当てるとすれば、チェスしかない。ソシ ュールはそう考えていたのである。

 この激越な吐露の前段を読んでみよう。

「言語学は二重の対象を扱う。それを説明するには、比喩にでも頼るほかない。チェスを 見ていると、そこで与えられる布陣はどんなものも先行する布陣と手が切れている。これ これの布陣に達するのに、あの道を通ったかこの道を通ったかはどうでもいい(中略)言 語に対する出発点はまさにここにある」

 この”前の布陣との切断”は『一般言語学講義』にもほとんどそのままの形であらわれ る。沈黙の時期に考えられていたことは、変わらず引き継がれているのだ。将棋と訳され た部分をチェスに置き換えればこうなる。

「チェスの勝負では、与えられた随意の位置は、それに先立つ位置から解放されていると いう妙な性質がある。そこへどの道をとおって達しようが、ぜんぜんかまわない」

 意味は将棋でも同じことだ。ひとつの駒を動かして、ある布陣に移ったとする。その時 、動かしたばかりの駒の歴史は無化される。その駒が今動いたことにこだわる必要は一切 なく、動きとして可能なら何手目にそうなっていたと考えてもいい。「あの道を通ったか この道を通ったかはどうでもいい」というのは、そういう意味である。

 このボードゲーム特有の性質をこそ、ソシュールは”手放さない”。『一般言語学講義 』は共時性を優先し過ぎていると批判されている。歴史、すなわち通時性を軽んじている と言われるのだ。チェス的に言ってみれば、瞬間瞬間に成立する布陣における駒の内的な 関連をしか考えず、指しの連続を見ていないということだ。だからこそエングラーが編集 している通称原資料を読むべきだと主張される。となれば、『一般言語学講義』への批判 はそのまま、チェスの比喩への批判と解していい。確かにソシュールは、”過去の駒移動 の順序”を捨象しているのだから。

 だが、駒が動いた過去の歴史がすべて消え去るというボードゲームの性質は、果たして 本当に歴史の軽視につながるのだろうか。ソシュールが興味を持つその性質の、ある種の 異様さはまったく別なことを指し示してはいないだろうか。それを僕はこれから、唯一チ ェスによって証明しなければならない。

 駒が着地した途端、その駒移動を決断させた論理が一気に消え去ること。

 その不思議のことをのみ、ソシュールは考えている。

 だから、チェスの比喩を手放さない。

 だから、沈黙してしまう。

 先に言ってしまえば、この比喩の核心に気づかせてくれたのはルーセルであり、デュシ ャンであった。彼らが持ったチェスの観念について考えている過程で初めて、僕はソシュ ールの比喩が示す”ある不思議な状態”を実感することが出来たのだ。

 だから、結論はしばらく後、ソシュールの兄弟たるルーセル、デュシャンの謎について 十分に書いたあとで記さなければならない。いや、それどころか、ソシュールとチェスに ついて語るべきことはまだ山ほどもある。



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