釜山の情け


 何年前だったかは忘れた。
 ともかく俺は、雑誌の取材で韓国まで船旅をしたのである。豪華客船で済州島まで 行って俺は船を降り、釜山に移動する予定だった。竹芝桟橋から出てゆっくりと進む 豪華客船・飛鳥の中で俺は上機嫌だったものだ。
 ちなみに、よく覚えているのは客室で夜半、唐突な高熱に見舞われ、ぼんやりとし た意識のままで何度もTシャツを着替えて汗を出し尽くし、やがて嘘のように健康体 に戻っていたことである。あんな不思議な病いにかかったことはそれ以前もそれ以後 もない。  また、中上健次の『日輪の翼』を再読しているうちに泣いてしまったことも覚えて いる。船の上から見た紀州は断崖絶壁の連続でもあった。厳しく、しかし懐かしいよ うな景観だった。
 船上のジャグージにつかったまま通ったのは豊予海峡だったか、関門海峡だったか。 ともかく、巨大な陸地の間を抜けていく客船と空の青の爽快さ。あんなに開放的な気 持ちになることはめったにない。
 おそらく船内では1泊しかしていなかったと思うのだが、どうもこの旅は俺の中に 様々な印象を残している。

 済州島での客船とはおさらばしても、印象的な旅は続いた。
 立ち寄った韓国料理屋の女性がかわいらしいスリッパをはいていたのである。細か な刺繍の入ったスリッパだった。それでつい、どこで買えるんですか?と俺は聞いて みたのだ。すると、女性は本当にこんなものが欲しいんですか?と問い返してくる。 ええ、と答えると彼女はこう言ったのであった。  お店が終わったら御案内します。地元の人間でないとわからないと思うので。  女性編集者とカメラマンと俺はとまどいながらも、彼女の好意に甘えることにした。 仕事を早めに切り上げてしまった韓国女性は弟を呼び出し、車を出させて俺たちを市 場まで連れて行ってくれた。深夜までにぎわう町、そして活気のある市場。俺たちは その風情を満喫した。  帰り道。暗い海の前を通る道端にムシロを敷いて騒いでいる人たちがいた。聞いて みると、彼らはマッコリを飲んでいるのだという。屋台のようなものが確かにぽつり ぽつりと出ていた。その屋台に獲れたてのイカを売りに来る小さな漁船があり、みな は道端にムシロを出してそのイカを楽しむのだというのだ。俺たちも済州島人に混じ ってマッコリを飲み、その夏の風物詩を堪能した。
 翌日も彼女と弟さんは俺たちを案内してくれた。もちろん対価を要求するわけでは ない。その韓国女性によると数ヶ月日本で働いていた時期があり、その時に日本人に 親切にしてもらったのだそうだ。その御礼ですから、とだけ彼女は言ったものである。
 いまだに俺は刺繍の入った韓国製スリッパを見ると、つい買ってしまう。いわば俺 は忘れ難い韓国人の情を思い出すためにスリッパを買っているのである。

 釜山に入っても、韓国人の情は厚かった。
 とある革屋で俺はどこかに仮面を売っている店はないか、と聞いたのだった。
 すると、それまでは人の袖を引いて離さなかったような強引な商売人は不意に表情 を変え、店の表に出て何やら言いながら指を差すのである。まさか本当にあるとも思 っていなかったので、俺は仰天してそのニンニク臭のある男のそばに寄った。男はま だ何か言っている。ともかく、指差す方向へ行けばいいのだと思って歩き出そうとす ると、なんと男も一緒に歩き出したのであった。
 いや、いいですよ、仕事中なんでしょ。俺が日本語でそう言っても、男は気にしな い。路地を左へ右へと折れて早足でどんどん歩いていく。そして、たまにこっちだこ っちだと手招きするのである。五、六分はあったろうか。いつの間にか俺は中国風の ランタンだとか、見たこともない形の儀式道具らしき物がぶら下がる間口の狭い店の 前にいたのだった。案内の男は特に俺の顔を見ることもせず、ここだと指を差す。
 男が店の主人に何か言った。すると今度は主人が二階を指差した。案内してくれた 男がまだ主人と何か話しているので、先に二階へ上がろうとし、階段の途中で振り返 るとすでに男はいなかった。礼も聞かずに、彼は消えていたのである。
 あれほど忙しそうにしていた男がなぜ店まで案内してくれたのかが謎だった。しか し、男の半ば興味のなさそうな顔がすべての鍵であった。つまり、当たり前の親切と いうやつなのである。貴方のために何かしますよという態度の一切ない顔。ただ道を 聞かれたので教えただけ、という本当の親切。日本の田舎になんとか残っているよう な生活の中の親切が、釜山のど真ん中にはまだ残っていたのである。
 実際、のちに仏像を見に韓国縦断をしたり、ダンスを見にかの地を訪れた時も韓国 人の情は厚かった。ただ、ソウルの中心地に近づけば近づくほどその情は薄くなった。

 というわけで、この面は案内された店で見つけたものである。
 韓国伝統の仮面劇に出てくる「酔発(チュバリ)」という放蕩者によく似ている。 「酔発」は赤いことが多いのだが、その黄色版だ。「老僧舞」というものに登場して 老僧を追い出し、女を横取りして子供を産ませてしまうというお調子者。
 もちろん、その時はそんな知識などなかった。  俺はとにかくジーンときており、また仮面を見つけた喜びで興奮もしていて、ただ ただ必死に韓国の特徴的な面を手に入れたに過ぎない。

                     



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