飛ぶ猿


 こちらもバリから買ってきた仮面。やっぱり二十年近く前、俺のもとへとやってきた。
 東南アジア好きならもちろん知っているハヌマン、つまり神の使い、もしくは神としての猿である。ラーマヤナを基盤とす る多様な神話世界でおなじみの存在。孫悟空も結局はこの「東アジアお猿さん文化圏」の中で生まれたと言っていいだろう。
 なぜか俺は猿が好きで、といっても実際の猿に興味があるというよりも、例えば自分をたとえるとなんの動物かというよう な質問にはつい「猿」と根拠なく答えたくなるし、日常生活でちょっとしたパニックにおちいると意味もなく「さる、さる、 さるー」と歌ってごまかす的な習慣を持っている。あるいは、唐突に何か面白いことを言えと強制されたらどうしようかと仮 定してみるようなとき、俺の脳細胞はすぐさま「猿」という単語へと刺激物質を走らせるのだ。かといって、面白いことが浮 かんでくるわけもない。
 おそらく、自分の中にあるおどけた体質(とはいえ、うまいおどけが出来るわけでもなく自意識過剰でひねくれた精神構造 があるだけなのだが)を俺は「猿」という単語に託しているのだろうと思う。太宰治が「トカトントン」と抽象化した事柄を 俺は実に単純に、しかも事態を突き詰めて考えることなく「猿」に結びつけてすませてきたのである。
 だからなのだろうか。このハヌマンの面は俺にとって常に独特な存在で、まず顔形や色を気にいっているにもかかわらず、 決して部屋の中心部に置かれたことがない。かといって軽んじられているわけでもなく、目につく場所には掛けておきたくな る。例を挙げれば、玄関をはいってきてリビングに向かう廊下のドアの上とか、トイレで男子的に用を済ませているときの背 後の位置とか、まあそういうような空間である。
 もしかすると、隙のある部分に「猿」を配して自分を守っているつもりなのかもしれない。自己内部の、精密にイメージ化 せずにおいている自己嫌悪、もしくは自己愛の対象。曖昧で背反していて幾つもの意味を持つ何かを、俺はこのハヌマンに託 しているということだ。
 昔、霊とか気配とかそういうわけのわからないものに敏感な人間が家に来て、このハヌマンにだけ反応していたことを今急 に思い出した。そいつはいきなり「この面、こわいね」と言うのである。俺はそういうこわさを一切感じていなかったので、 「こわくないでしょう、こいつは」というようなことを答えた。すると、やつは「いや、そういうこわさじゃなくて生きてる からこわいってこと。っていうか、ふざけてる、この面だけ。おどけて動いてるっていうのかな。他のお面は真面目なのに」 と言うのだ。
 そういうもんかなあとその時は思っていた。まあ、さもありなんという気持ちがあったことも否めない。なにしろ「猿」だ からふざけているのは仕方ないと、精神内で猿を持て余している俺は思ったわけなのだろう。
 それから数ヶ月後だったか、数年後だったか、家に帰ってきてみるとこのハヌマンが落ちていたのだった。大体この手の面 は裏側に少し太めのゴムが付いていて、俺としてはそのゴムを壁に打ったピンに引っ掛けて飾るのだが、科学的に言えばゴム が切れていたわけだ。しかし、科学的ではない事柄がひとつあって、落ちた面が掛けておいた場所から数メートル離れた位置 に落ちていたのである。どう考えてもそこまで移動する手段がない。俺はそのとき友人の「おどけて動いてる」という言葉を 身にしみて感じた。困ったことだと思った。少しだけ背筋を凍らせて、「ふざけんなよ」と言い聞かせながら元に戻した。
 あり得ない場所に移動したがるという点でも、この「猿」が自分に似ていることを俺は思った。別に移動したところでなん の得もないくせに、俺は我が家のハヌマンよろしく仕事の範囲を広げるのである。他人からすると、どういう経路でその仕事 に興味を持つに至ったのか理解出来ない。だが、本人は反射的にそこへ行くのである。戻る方法も考えずに。
 しかしながら、俺はいまだにこの「猿」を部屋の中央部に置く気がしない。俺のような存在は一人で十分だし、これ以上持 て余すものが増えるのはやりきれないからだ。
   



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