すべての始まりのイノシシ


 この面からすべては始まった。
 要するに面好きである。面集めである。

 大学一年の時だったと記憶するから、俺は十九才。今から二十年前のことだ。
 どういうわけだか、俺はセゾン美術館にのこのこと出かけて行ったのである。今はなくな ってしまった池袋西武のあの美術館だ。
 いい美術館だった。
 大学当時はあそこの展覧会をほとんど見たんじゃないかと思う。日本に美術館がひとつし かないみたいな勢いで、俺はセゾンに通い詰めたものである。
 それもこれも『アジアの仮面展』というあの企画あればこそという気が今ではする。
 なぜ『アジアの仮面展』などというものをやっていたのか。
 そもそも、なぜ俺はそれを見に行こうとしたのか。
 二十年も経ってしまった現在、詳細は不明である。
 ともかく、俺は行ったのであった。
 電車に乗ること自体あまり得意ではないくせに俺はいそいそと出かけ、そして美術館に入 った途端、背筋を凍らせ、なにがなんだかわからない異様な汁が脳内に分泌されるのを知っ たのである。
 お化け屋敷みたいに館内は暗かった。妙に上の方にぼんやりとライトが当たっていたので はないかと思う。その妙な位置に仮面がかかっていた。ぞっとした。ぞっとしたと同時に目 がかっと開いた。
 なんの面だったか覚えていない。だが、とにかくそれは魅惑的だった。展示の仕方が巧妙 だったことも確かだが、仮面からじわじわと浮き出る不可思議な力が俺をとらえて放さなか ったのである。
 中には俺の背丈より少し高いくらいの台に乗った面があった。近づくといきなり生きてい るような気がして俺は驚いた。思わずあとじさる。あとじさるのだが、また近づきたくなる。 ある程度近づくと、それは命を得て俺を脅かす。
 距離は厳密に決まっていると思われた。一ミリもたがわず、そいつはある圏内まで行くと 突然様相を変え、いきなり動きそうになるのである。俺はその距離を確かめたかった。だか ら子供みたいに何度も何度も、近づいたり離れたりを繰り返したものである。

 相手は顔である。
 手足も胴体もない。
 それがなぜそれほど魅惑的なのか。
 あるいは、なぜそれほど恐ろしいのか。
 館内をゆっくりゆっくり回りながら、俺はそれ以上ない興奮状態におちいっていた。
 なぜだろうと考える。わかりたくて近づく。近づけば脅かされて考えている暇がなくなる。
 その繰り返しがいつまでも続くことは、俺の中の“興味それ自体”を象徴していたように 思う。近づきたくなるはかりがたさ。しかし、近づく度に刺激が思考を上回ってしまう対象。
 俺は元来、そういうものに目がないのだ。
 そういうものが好きで生きているのである。

 パンフを買ったのかどうか覚えていない。
   なにしろ学生の俺には金がなかった。
 何を考えていたのか、俺は実家に電話をし、母親に熱く面のすごさを語ったらしい。
 しかも、母親を誘って二度目のセゾン詣でをしたのである。
 異常なことだと思う。
 あとにも先にも母親をそんな目に会わせたことはないし、思いつきもしない。
 だが、よく思い出してみるとその時だけはそうしたのである。
 今から考えれば理由はかなりはっきりしている。
 展覧会場には幾つかの仮面が実際売られていたのである。
 俺はその仮面が欲しかった。つまり、物欲のほとんどない俺がおそらく生まれて初めて親に 何かをねだった。だからこそ、母親を連れ出し、暗がりでアジアの仮面を見せ、たぶんパニッ ク状態になっている彼女にかまわず、ひとつの面を指さした。そういうことではないだろうか。

 母親も必死だったろう。ともかく買ってさえやれば息子の悪魔憑きがどうにかなると信じ、 三千円だか四千円の仮面を手に取ったのである。
 それがイノシシだか豚だかの面であった。
 形状からしてネパールのものである。
 三ツ目で眉の部分が松の模様のようになっている。
 どう見ても悪魔憑きが治るタイプの面ではない。むしろ悪魔がどんどん憑くような奇怪な面 だろう。
 事実、それ以降、俺は仮面と見ると我を忘れて財布を取り出すようになる。
 悪魔は確実に憑いたのである。

     



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