MAY

メダカ

●五月の魚/メダカ増殖(1999,5,24)

 ベランダも室内も世話すべき植物でいっぱいだったが、メダカもまた大変なことになっていた。
 四月終わりか五月の頭、ふと水槽の中を見ると藻に怪しげな玉が付いていたのである。直径一ミリにも満たないような透明の玉。しばらくはそれがなんであるかわからず茫然としていたものだ。
 藻が吹き出す酸素の玉にしては透明度が低い。かといってエサの残りが腐った物だったり、メダカのフンだったりしないことは確実である。
 まさか……と思った瞬間、玉がひとつふたつではすまない数で藻のあちらこちらにくっついているのが見えた。いや、藻どころか、メダカの尻にも付いている。
 卵であった。気づいてみれば玉の中には確かにふたつの黒い目らしきものがあり、表面にはイクラを思わせる張りが存在している。
 あわてて徒歩一分のデパートまで行き、屋上で藻を買うと、かつて使っていた巾着型の水槽を出してきて、そこに水を張った。その水槽は貴重な植物のスペースを食うからこそ、片づけられていたのである。だが、卵をそのままにしておけば親メダカが食ってしまうことは明白で、いわば俺は命か空間かという究極の選択をしたのである。
 スポイトで卵を吸い、新しい水槽の藻に吹き付ける。まだ卵はないかと親メダカの水槽のガラスに目をつけんばかりにする。最初は四、五個だろうと思って狂喜していた俺は、すぐに容易ならざる事態を前にしてがっくりと肩を落とした。卵はすでに二十個ばかり産み付けられていたのである。しかも、メダカが尻に付けて泳いでいる以上、さらに増えていくことに疑いはなかった。
 地獄である。俺はなにしろ元来藻を育てたくて金魚を買い、その仲間としてメダカ生活に入ったのであった。そして御近所からいただいた数匹を軽い気持ちで世話していたのである。それがここへ来て突然、幾何級数的な増殖を始めたのだ。
 息を詰めながら卵を見つけ出し、それを吸って移動させる。また卵を必死で見つける。たとえすべてをもれなく移動させ終えても、明け方になると親メダカの様子がおかしくなり、オスメスが寄り添うようにして交尾などする。メスの尻には新たな卵が付いている。
 この作業に終わりはないのではないかと思った。俺という一個の人間は要するに永久にメダカの卵を発見し続け、移動させ続けるためにのみ生き続けるのではないかという恐怖があった。そのうち、巾着型の水槽に放した藻にびっしりと卵が付いた。すべてが孵ったら、そいつらのために新しい水槽を買わざるを得ない。なにしろ数十個はある。
 卵はしばらく様子を変えなかった。急いで入手した『生き物の飼い方』、メダカの項目には「すぐに始まる分裂を観察しよう」との呼びかけがあるのだが、若干老眼も入ってきた俺の目には(俺はメダカの卵によって、はっきりとその兆候を知った。新しく小さな生命によって自分の老いに気づかされたのである!)なんの変化もわからない。だが、じっと見ていると、黒い目が動くことがあった。 「あ、生きてる」と思うと、のちに待っている水槽地獄への懸念が吹き飛んでしまう。ともかく孵すのだ、なんとしても卵を孵化させよう、もしも家がメダカだらけになるようなら隅田川に放したっていいじゃないか。俺は自分に「メダカは絶滅に瀕している種なんだぞ」などと言い聞かせもした。だが、絶滅を危ぶまれているのは在来種なのであって、俺が飼っているヒメダカではないのである。すなわち俺は明日の自分を自らごまかして、毎日メダカの卵に集中しているのであった。
 そして、メダカは誕生した。一匹誕生するとどんどん誕生する。細い細い糸くずみたいなやつらが黒い目だけを目立たせて水に浮かぶ。死んでいるんじゃないかと息を吹きかけると、唐突にピクリと動き、あらぬ場所に瞬間移動して泳ぎ出す。まことに可愛いものである。可愛さに負けて俺はまた卵移動に専念した。もはや隅田川作戦は確固たる俺のスケジュールとなっており、それならば増えるだけ増えるがよいと勝手な願いをかけたりもしていたものである。
 ところが、三週間ほどすると水の調子が悪くなった。「エサを小さく砕いてあげましょう」と『生き物の飼い方・メダカの項』にあるので、疑いもなくそうしていたのだが、なにせ相手の体は微少でエサなど食いきれない。やがてその残りから白いカビなど出てきて、小メダカたちは水槽の底に沈みがちになった。
 だからといって、水を換えようとすれば必然的に藻も洗わなければならない。藻は黒ずみ始めており、水だけ換えても無駄なのである。したがって、俺はなんの策を弄することも出来ず、ただひたすらふーふー息を吹きかけて水の運動を起こし、上からジョウロで水を足したりして酸素補給をした。
 ある日を境にメダカは次々に白くなり、シラス干しの小さいやつみたいな姿で横たわり始めた。スポイトでどんどん死体を外に出すのが、今度の日課となった。幸い親メダカはそのへんで卵の放出をやめていたから、涙をのんで藻を洗い、水を換えた。幾つかの卵はつまり最大の利益のために犠牲となったのである。
 こういう成り行きを親メダカは見ているのではないかと思った。なぜなら新しい水に換え、エサはやらなくても藻を食べるからいいというペット屋のおばさんの助言を受け入れた状態になると、またもせっせと卵を生み始めたからである。
 鉢植えにはだいぶ慣れた。慣れたおかげで今年はたくさんの鉢から花が現れた。しかしメダカの卵を孵すなどという難事は初めてのことである。
 経験ということについて、俺は世間によくある教訓を一切信じないで生きてきた。経験が第一だとはこれっぽちも思っていなかったのである。だが、植物の水やりだのメダカの赤ん坊の世話だののことを思うと、知識に出来ない「具合」というものがある事実を認めざるを得なくなる。
 メダカの「具合」がわからないからこそ俺は多くの小メダカを殺してしまい、鉢植えの「具合」がわかってきたからこそその花を生きながらえさせることが出来るのだ。
 経験は言葉に出来ないと人は言う。なるほど本当にそうだと思う。メダカの死を何度も見るうちになんとなくわかってくる「具合」があるからだ。世間がもっと正確に言ってくれていたら、若い頃に俺も納得しただろうと思う。実際は「言葉に出来ない、いわゆる暗黙知があり、それに乗っ取らずには成功しない事柄が世界には多数存在する」のである。しかも、「その暗黙知の存在を認識させてくれるのは、ごくささいな人生の体験」なのだ。
 それでも、俺はまだ経験を重視したくない。 それを「ごくささいな」「暗黙知」、すなわち「具合」と言ってくれない限りは。
 こうして、俺は今日もメダカを観察し、幾つかの鉢を大きめの鉢に変えて根をゆるめ、葉水をやり、その他のあらゆる「具合」を調整しながら最後にベランダに立って、小雨の空を眺めたのである。
 俺の「具合」を確かめるために。
 

                   


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