DECEMBER

シクラメン

●十二月のシクラメン/歌の功罪(1998,12,29)

 シクラメンだけは買わないことにしていたのである。蓮を買わない理由とは違う。あれはベランダに大がかりな仕掛けが必要になるからだ。
 シクラメンはとにかく女々しい花だと思っていた。誰でも買いやがるし、そこら中の花屋に出ているし、なんというか凡庸のきわみである。正直にいえばあの歌が一番いけない。『シクラメンのかほり』か? かほりってことはないだろう。「どぜう」は許すが「かほり」は駄目だ。文学趣味の弱々しさが気に入らない。
 それで俺はいつでも冬になると歯をくいしばった。シクラメンなら元気そうなのである。あらゆる色で咲き誇り、買って下さいといわんばかり。馬鹿にするな。俺も小椋同様メガネはかけているが、まだハゲちゃいない。お前の「かほり」はたくさんだ。しまいに「てふてふ」とか言い出そうものなら鉢ごと燃やしてやる。そう考えていたのである。
 ところが、ある日。日曜の小さな植木市でシクラメンを買う気になってしまったのであった。千円だったと思う。妙に安いシクラメンどもは屋台の棚に並べられ、多少徒長した葉の隙間から蕾を覗かせたりしていた。要するにバッタ物である。ずいぶんと咲いた後で普通の花屋に置けなくなったやつを、どっかのおばさんが売っているのである。これならいいと唐突に思った。びょんびょん伸びた茎からはとうの昔に素敵な「かほり」臭が消えており、くたびれたその様子がむしろ「どぜう」のニュアンスに近かったのだ。
 それなら何色を買おうかとためつすがめつ見た。まず紫のやつにひかれたが、部屋が女臭くなりそうだった。それならいっそ赤々とした花にしようかとも考えたのだが、そうなるとポインセチア感が出る。ポインセチアは俺が買わないことにしている残り少ない鉢のひとつである。陽気なクリスマスに嫌悪を覚えるからだ。次第に白が気になってきた。クリーム色がかった白い花は清潔で力強かった。鉢を手にとってみると、葉のかげに蕾が隠れていた。鶴のように首を曲げ、うつむいている蕾があちこちにある。正月に向けて白鶴もよかろうと思い、ようやく購入して家路についた。
 調べてみるとシクラメンは強いのである。水さえやって、あとは時たま葉を拭いてやればいい。すると次から次へと鶴が立ち上がってきて、やがて巻き貝のようにほころび出し、最後には蝶のように花びらを背中に向ける。普通の花と違って、花を反り返らせる姿はなんとも偉丈夫である。咲ききってしおしおした茎を抜き取れば、もう次なる鶴が構えている。これはもう鶴畑である。いくらでも鶴が獲れる。俺は「かほり」にだまされて、そうしたシクラメンの強さを知らずにいたのだった。なるほど人がやたらとこの花を買い、また他人に贈るのは世話いらずでいつまでも咲くからなのである。
 ついに俺はすっかりシクラメン好きになった。白い花びらの同じ場所にしばらく小さな蜘蛛がいたのも、俺の気に入った。エサがあるとも思われないのに、その小さな蜘蛛はいつでも同じ場所に陣取っていた。不思議なことにその花だけはいつまでもしおれず、蜘蛛を乗せたままでいる。要するに俺は蜘蛛込みでシクラメンを愛し始めたのであった。
 だが、いつだったか蜘蛛が消えた。その前に蜘蛛が居場所と決めていた花がしおれたのだが、移動させてから抜いてやるとその日は引っ越し先にちょこんと構えていた。しかし、どうもお気に召さなかったらしい。毎日眺めていた蜘蛛がいなくなったせいで、俺はおセンチな気分になった。その俺の気弱な胸にあの歌が忍び込んできた。シクラメン購入以後、一度も歌っていなかったあの歌が口をついて出た。「真綿色したシクラメンほどすがしいものはない」
 俺は仰天した。俺の目の前にあるのがまさにその真綿色したシクラメンだったからである。なぜ、なぜ俺が小椋色したシクラメンを買ってしまったのだ! 昏倒してしまいそうな気持ちを抑えて、さらに歌ってみた。すると小椋は「疲れを知らない子供のように時が二人を追い越してゆく」と言っていた。死んでしまうかとさえ思った。「疲れを知らない子供」は直接的なシクラメンの比喩ではない。だが、連想としてはイメージを引き継いでいるのである。ならば、俺がシクラメン評価の最大の理由とした生命力もまた、小椋が手中にしていたものなのだ。そして小椋はその生命力をうらやましげに見つめる中年の悲哀へと歌をもっていく。
 はめられていたのだった。気づかぬうちに俺は真綿色のシクラメンを買い、その疲れを知らない強さに魅了されていたのである。ひょっとすると、あの蜘蛛が小椋だったのではないかとさえ思った。俺にシクラメンを気に入らせ、引き返しようのないところまで導いてすかさず逃げたのだ。蜘蛛を顕微鏡でよく見てみるべきであった。あの顔だったことは疑いようもないと思えてきた。
 もちろん俺はシクラメンをもって中年の悲哀を描いたりしない。そこが田舎者と都会人の違いである。だが、あの花への評価がまったく同じであることはごまかしようがない。「すがしい」といい、あまつさえ「かほり」と言う男と俺はシクラメン的には同類なのだ。
 他の簡潔な言葉でシクラメンの魅力を言わなければならない。俺は焦った。しかし、焦れば焦るほど言葉は出てこなかった。
 とりあえず今は意味もなく「どぜう」とだけ言っておく。

         


kinokuniya company ltd



INDEX

Copyright (C) SEIKO ITO , EMPIRE SNAKE BLD,INC. All rights reserved.