AUGUST

睡蓮/ムクゲ

●八月の睡蓮/祭の後(1998,8,20)

 ベランダでへたり込んでいるのは睡蓮である。大きな蓮やら茶碗蓮やらですっかりこりたはずの俺は、すでに先月睡蓮を買い込んでいたのだ。そして、やっぱり失敗してしまった。
 ほおずき市に心浮かれ、二日続けて浅草寺の境内をうろついた俺は、しかしほおずきを買う気にならなかったのである。そのかわり二鉢買ったのは母親だった。今年は親孝行年と決めていたので、俺はほおずき市に両親を呼んでいたのだ。
 近頃薄々気づき始めていたことなのだが、このほおずきを二鉢買った母親が驚くほどの植物好きなのである。やたらにくわしい。無数のほおずきの中でも鋭い視線をあちこちに走らせ、結局抜け目なく立派なやつを入手していたし、ほおずきに便乗して寺の裏に立った植木の屋台の前にいても”ああ、ほら、お父さん、これうちでも育てたやつ”とか、さかんに俺に差をつけやがる。しまいには俺が手を出しかけた植物に対して、それは育てにくいからやめろなどと忠告する始末である。
 いつからそんな風だったのか、俺にはまるでわからない。確かに俺のボタニカルライフの起源には母親がいた。ある日、笹と金のなる木とオリズルランをほとんど無理やり俺に持たせたのだ。世話が下手でやつらが枯れ、しかし長い時間ののちに水をやると突如若葉を茂らせ始めたというのが、俺が鉢植えにはまる始まり、原初の喜びだった。
 だからといって、俺が小さな頃からそうだったようには記憶していない。うちにいたのは金魚やらヒヨコやらだった。そのうち家庭菜園みたいなことをやり出したのは知っていたが、それにしたって俺が物を書くようになってからのことだ。しかも、当時は街路樹のひとつひとつを見て”あ、花みずき”とか言い出しはしなかったのである。俺への対抗意識なのだろうかとさえいぶかしむほど、母親は正確にくわしく植物の名を言い、そしていつくしむ。俺のような忘れっぽいベランダーとは違うのよと言いたげである。
 いや、俺がその言葉を世界から閉め出していたのかもしれないと考えることがある。母親はいつでも御近所の鉢植えに目を配り、あるいは道の上を覆う木を見ては”あ、イチジクが咲いた”などと言い続けていた。俺がその言葉を聞いていなかっただけなのではないか。そう思うと俺の育ってきた年月の質が変わる。俺は無意識のうちに植物への愛を貯め込み、知らぬ間にそいつを爆発させただけだともいえるのだ。だが本当のことは何もわからない。母親に聞いたところで、昔から好きでしたよと言うに決まっているからだ。
 小さな頃に別れた子供にこの間会った。彼女が植物に興味を示していることは前から知っていた。そこで二人で道を歩きながら、見つけた木の名前をどっちが多く言えるかというゲームをしようと持ちかけた。そうでもしないと徒競走ばかりさせられるからである。走るコツというものを会得したばかりらしく、父親の俺にその披露をしたいのだ。
 そして、驚くべきことに、彼女は完璧に俺を打ち負かした。小学校に入りたての彼女は次々に”あ、ポーチュラカ”と言い、”あ、タチアオイ”と言い、負けまいとあわてている俺の間違いを正し、あまつさえ”あ、ヨウシュウヤマゴボウ”などとすさまじい知識で、わずか十分ほどの間に二十数種の植物を同定して俺を圧倒したのである。教えているのは元の妻以外にないのだが、それほど植物にくわしいとは俺は知らずにいた。娘はやがて道の端に咲く小さなオシロイバナをつんだ。つんだらかわいそうだよと俺は言ったが、彼女は気にせずに香りをかぎ、コップに入れておけば長持ちするなどと軽くいなして、それを指にはさんでまた歩き出した。花のさかりを何気なく楽しみ尽くしてそれを身につけ、しおれたら土に投げてやる。花をつまないことよりもその方が自然な関係なのかもしれないと俺は彼女の小さな背中をながめたものである。
 俺以外の俺をめぐる女性たちがみな俺以上に植物と気兼ねない接触をし、それらを様々に見分けては愛している。俺だけが取り残されて得々と文章を書き、ベランダーなどと言い張っている。その事実が俺をぽつねんと世界に取り残す。気づいてみれば俺以外の人間の誰もが植物とともにいて、俺はただコトバの世界の中にしかいない。
 話は睡蓮に戻る。両親が帰ってから俺は夜遅くまでやっている市に再び立ち寄った。やめろと言われた睡蓮がどうしても欲しくなったのだ。そのひと鉢を差し出す俺に、露店のオヤジは”蓮にはコツがあるんだよ、コツが”と言った。あたかもお前には育てられないと言わんばかりである。それを教えて欲しいと俺はコトバで言った。オヤジはじゃあ教えてやると唾を吐き、それから全く別の植物の鉢を手に取ってなにやらわけのわからない数値を口にし始めた。”いいか、八センチ、いや十センチかな。ここから十センチ”とオヤジは言う。何が十センチなのかと尋ねると、よし今から書くと答える。そもそも目の前に出してきたのは睡蓮の鉢ではないので、どこから十センチかも何を十センチにするのかもわからない。わからないが書いてくれるならと俺は待った。オヤジはビニール袋にマジックインキで何かを書き始めた。書きながらも”コツがあるんだよ、十センチ、いや十五かな”と言う。数値は揺れていた。
 俺はコツを知ろうと渇望していた。植物を愛する人間が体に刻み込んでいるべきコツ。俺は小さな花を手折ってもいい人間になりたかったのかもしれない。オヤジはコツをすっかり書き終え、そのビニール袋を持って数秒俺をにらみつけた。なんだろうと黙っていると、睡蓮はどこだと聞く。自分で後ろに置いたくせに忘れているのだ。そこにありますと俺は丁寧に言った。オヤジはそれでもしばらく睡蓮を見失っていたがやがて視界に入れ、そのひと株を軽々と持って袋に入れた。
”いいか、十センチ、いや八センチ、一寸だな”と、オヤジは矛盾だらけのコトバで俺を送った。そうですかと俺は矛盾を受け入れ、新しい人間になるべくコツを知ろうとした。ほっと大きく息を吐き、ビニール袋を見る。おそるべき情報がそこにはあった。「スイレン」「8センチから10センチ」……。
 結局、俺にはなにひとつわからない。そして、わからない俺の回りで人間たちが植物を愛し続ける。
 

●八月のムクゲ/老いたセミの恋(1998,8,23)

   劇的に丈が変わることもない。余計な枝が出ることもない。最初に咲いた夏とほぼ同じ姿でいるその六十センチほどのムクゲは、どうもおかしな習性を持っている。
 世田谷のベランダでも、そいつはハチを誘っていたのである。夏、あれこれの植物に水をやっていると足長バチが迷い込んできて、ふらふらとムクゲのそばに寄っていったものだった。花が咲いているわけではない。だから、ハチは面食らってムクゲの回りを残念そうに飛び、しかしとりあえず細い茎にしがみついて休憩する。他に咲いている花があるのだからそちらから蜜でも花粉でも取ればいいのに、ハチはしばらく茎を上下に移動し、なんの収益もなしに去るのである。
 何度か同じことがあった。ハチはどこからともなくやってきてムクゲに止まり、まだ花が咲いていないと知ってか、さびしく空に向かったのだ。そして十日ほど前、またも足長バチが来たのである。すでに俺は越している。だから、台東区のベランダにおいても、ムクゲはやはりハチを寄せつけたのである。やはり花は咲いていなかった。蕾がふくらんではいるが花までは遠かろうと思われる時期に、なぜかムクゲは独特のフェロモンか何かでハチの心を惑わせるらしい。魔性の少女、ムクゲ。
 そして、三日前。明け方セミがうるさいと思いながら眠り、昼過ぎに起き出すと、今度はムクゲの細身にセミがしがみついていたのである。ムクゲのあまりのスレンダーぶりのせいで、セミはほとんど自分の足同士をからみ合わせているような具合になっている。幼女にイタズラをしている青年みたいな怪しさなので、俺は一瞬目をそらしてしまったくらいである。もちろんのこと、花は咲いていない。蕾が静かに上を向いているだけである。
 いきなり抱きついてきたセミのことなど気にせず、ムクゲは一心に日を浴びている。追い払えばかえってムクゲの記憶に性的な印象が残ってしまうような気がして、俺は水やりをあきらめ、セミを放っておくことにした。夕方見るとすでにイタズラな青年はいなかった。安心してそこら中に水をまく。だが、その夜もその次の夜も、ベランダ付近でパサパサと音がするのである。まあセミが多い季節ではあるから、やつらがビルの壁にしがみついたり、数秒迷い込んで飛び去ることもあろうと俺は最初気にしていなかった。
 二日後の昼、それにしてもパサパサ言うことが怪しくなってベランダを注視した。するとムクゲからは最も遠いベランダの端、シソと朝顔の鉢の合間にセミが潜んでいたのである。アスファルトの上でじっとしている。床を這う形になったセミが残り少ない命であることは経験上知っていた。死にかけのセミに触れ、すっかり弱まった振動を手に感じるのはいやだったが、死骸を取るのはもっといやだ。俺は勇気をふるってセミに手を伸ばし、久しぶりにやつを指ではさんだ。ぶるぶる震えることもないが足の動きはさほど弱くない。試しに放り上げると、セミは十分な力で飛び始め、カーブを描いてよそのベランダの方へ向かう。
 その近所迷惑な軌跡を眺めながら、俺はそのセミの心のうちを思いやった。まだ咲き誇るまでに時間のかかるムクゲにしがみつき、だがあきらめきれずに周囲をうろついているうちに、やつは飛び回ることをあきらめてしまったのではないか。それでも老いらくの恋を捨てきれず、鉢の陰からムクゲを見守るつもりだったのではないか、と。ろくでもない考えである。虫だの花だのを本気で擬人化するメルヘンなことは許されない。許されないのだが、セミが飛ぶ数秒の間、俺はついそう思ってしまったのである。
 セミは視界から消えた。どこかのベランダでやつは今日死ぬだろうと思いながら、俺はムクゲを見やった。そして驚いた。まだ先になるだろうと思われた蕾が予想外にも開き、その割れ目からサーモンピンクの花びらが飛び出していたからである。

 ムクゲの花びらはよじれたまま、今日も開ききらずにいる。まるでセミのために咲こうとし、セミの姿がないので思案しているかのように。そのムクゲの花に向けて、俺は霧吹きでたっぷりと水をかけ、植物ではない俺たちはああやって一度きりで生きて死ぬのだと言い聞かせる。

              


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