APRIL

ハーブども/野梅

●四月のハーブ/すました雑草(1998,4,16)

 昔スーパーで買って来たミントやクレッソンの茎は大変なことになっている。ミントはおのれの限界を超えて丈を長くし、さすがに過度の背伸びに気づいて葉の色が薄くなっているし、クレッソンはいつの間にか鉢いっぱいに根を張ってもさもさしている。
 基本的に俺はハーブを買って来ないはずだった。種から育てるか、寸断されてスーパーにあるやつを我が物とする方針で来たのである。
 ところが、この春からはまた違う気分なのだ。理由のひとつはシソやら葉ネギやらを種から育て、その面倒さに疲れ気味なこと。いまひとつは、スーパーものに種類の限界があることだ。その間に世間では様々なハーブが出荷されている。そのへんを歩いてる普通のばばあがボリジだのキャラウェイだの言っているくらいで、俺は最初、やつらが息も絶え絶えで病院からもらってくる薬のことだろうと思っていた。まあ、ハーブは半ば薬だからまったくの間違いというわけでもない。
 ミントの種類だけでもやたらにあってミントおたくの存在が想像されるし、しまいには札を見ても名前のわからないハーブさえある。 それが百円だの二百円だので売られているわけだ。どいつもこいつも生え出たばかりの風体で生彩がなく、どう見ても雑草である。いや、ハーブなんて実際雑草なのだが、売られ方でその正体がばれているところが悲しいのである。そして、その高級感のなさが俺の性に合うのだ。
 それを世の中の”ガーデナー”とかいうものを称揚する田舎者どもは、ハーブ育成があたかもヨーロッパ趣味のように扱いやがる。まさに言語道断である。あいつらは意地汚い雑草であり、放っておけば自らの首をしめるまでに育ってしまう大食らいなのだ。だからこそ、俺たちベランダーはハーブの中に自分の姿を見、まあ一緒に暮らしてもよかろうと判断を下すのである。
 あの強さがまずいい。種から見守るには少々の勘なり経験なりが必要だが、育ちかけのやつを植え替えてやればあとは適当に水でもやっておけばいいし、枯れたと思っても復活の可能性が高い。なにせ雑草である。ペンペン草を家の中やらベランダで後生大事に育てているような不条理がまたなんともいえず価値転倒的である。いわば部屋に飛び込んで来てしまった雀を飼育しているようなものだ。
 俺も子供の頃、そういう雀を飼った。飼ったがすぐに死んでしまったか、その前に逃がしてやったかであまり記憶がない。話を見事に展開させようと思ったが、まるで覚えていないのでハーブに戻る。世間的には収穫の喜びというものがまた魅力だろう。我々ベランダーはもちろん、花を咲かせることでその喜びを得る。だが、現代人は貪欲である。まずハーブの小さな花の姿を心のうちに収穫し、さらに葉を収穫しなければ気がすまない。二毛作体質というようなものだろう。しまいには根をくらったり、茎をかじったりもする。飢饉でもあったのかと思うくらいだ。
 その姿勢はあきらかにハーブ的である。雑草の欲の深さと同様の貪婪さが透けて見える。役に立つものならどこまでも役に立てようという根性である。なにしろ、エッセンシャルオイルとかいって、匂いまでかぐ始末だ。雑草から存在のすべてを奪い取ろうというのである。
 それならば、なぜ俺のように「ハーブ育成は小作人の魂で」と言い切らないのであろうか。俺がタイムを植え、オレガノの世話をし、花屋の店先でしおれていたチャイブをすかさず救い、カモミールに霧を吹きかけてやる時、頭に浮かんでいるのは自身の小作人姿である。丈夫に育ち、そのすべてを生活に利用出来るハーブの恩恵を、俺は頬かむりし、腰を低くして受け取ろうとするのだ。ヨーロッパの素敵なガーデンなど考えもしない。そもそもヨーロッパでハーブを育てている連中だって、俺と同じ気持ちに決まっている。そうでなければ、ああいう雑草を育てようとはしまい。
 土地を持つことを許されず、地主に苦しめられるような生活という意味で、俺と連中はまったく同じ立場にある。同じ立場にいながらハーブの強さに感謝をし、そこから喜びのすべてを汲み尽くそうと願う。
 言っておくが、ベランダーは単に都会の趣味人ではない。空を共有する世界の労働者諸君と連帯をしているのである。このことを忘れてもらっては困る。だからこそ俺は、トロ箱に植物を入れ、各地の道路を不法占拠するばばあにエールを送っているのである。階級をわきまえずガーデナー気分にひたる日本の頭の悪いプチブルどもと我々は、敵対関係にあるのだ。
 これがベランダー思想というものである。植物主義は幻想を許さない。植物たちを通して社会的現実を凝視し、自らの立場を鮮明にし続ける。
 だからハーブは、俺たちのシンボルでもあるのだ。


●四月の梅/盆栽ぎりぎり(1998,4,21)

 野梅の鉢をリビングの窓際に移した。
 今日から数週間休日はなく、しばらくは植物の世話をする機会もない。ありがたいことに、春は植物どもを活き活きとさせてくれ、手入れをするモチベーションに満ちてくる。
 疲れがたまっていて歩くのも億劫なのに、俺はシャベルとハサミをひっきりなしに使って我が家の陣営を整え直したのである。藤もようやく芽をふいた。ムクゲも若葉を噴き出しているし、引っ越しで大ダメージを受けたまま放っておかれたオブコニカもうれしいかな、満開になっている。
 あいつをベランダに出して、こいつを部屋に取り込んで、さらにやつらの位置をすべて変えて……とまるで野球監督みたいに俺は采配をふるい続ける。すると、ピッチャーに穴が開いた。リビングのソファの横、小さなフィギュアやらメダカ入りの金魚鉢やら銀座で焼け残ったレンガやら、どうでもいいが捨てがたい物に満ちた棚の上に置く鉢がなくなったのである。
 その場所は俺のひとときの休息に最もよく貢献する空間で、つまり”いい感じ”の鉢がひとつだけ置かれなければならないと決まっている。しかも、窓から空を見るためには丈は低く、見栄えがいいけれど主張の激しくない鉢がベストだ。これまでその大役を勤めて来たのは西洋シャクナゲ、カルセオラリア、レモンバームといった外国人選手たちであった。
 だが、それら選手をベランダに放出したり、ファームに入れたりしているうちに、席が開いてしまった。どいつを入れ替えてもしっくり来ない。いったんレフトに下がった選手を再びマウンドに呼ぶわけにもいかないだろう。それじゃ高校野球である。俺のプロ意識が許さないのだ。
 あれこれと迷ううちに野梅が気になった。すっかり花も終わり、ゆっくりとしたペースで葉をつけているベテラン野手。もしかしたらとピッチャーにコンバートしてみると、これがピタリとはまった。直径十五センチほどの低い鉢に植わった野梅は、土表面を覆う苔もあってなかなかの風格である。夏まではこいつにマウンドをまかせてみようと、俺は満足しきりでソファに座った。
 鉢植えの梅は庭ものと違って、花後に深く剪定を行わなければならない。庭ものは安易な切り詰めが厳禁なのに対して、鉢ものは厳しく管理されないといけないのである。だが、俺はその機会を逸していた。花に目を奪われ、それが落ちてもなお幻影の中でその白く可憐な姿に酔っていたのである。おかげですべての枝は徐々に伸び、そこから葉が出てきた。
 ピッチャーとしてよくよく見れば、樹型があまりよろしくない。剪定をしてしまおうと立ち上がりかけたが、俺はなんとか踏みとどまった。今フォームの乱れを直してしまえば、そいつは丸坊主である。丸坊主になった梅をマウンドに置いて毎日眺めるとなれば、恐ろしい結果を招くこと必至なのである。なぜなら、それはもはやボタニカルライフではなく、盆栽だからだ。
 これまで俺がしてきたことはあくまでベランダーとしての仕事であった。だが、そこでハサミを持ち出したら最後、俺は盆栽の世界へと足を踏み入れることになる。うまくは言えないが、それは明らかに生きている世界を変えることだ。うっかりした剪定が俺からベランダーの称号を奪い、盆栽初心者という名前を与えてしまう。
 俺の中でも、このボタニカルライフと盆栽の差は規定が難しい。難しいから経済原理を取り入れて、月平均二千円までがボタニカルと決めている。おこづかいか給料かみたいなはなはだ曖昧な決め事ではあるが、何か規則を作っておかないと俺は知らぬ間に盆栽家になりかねないのだ。いや、けして盆栽が嫌いなわけではない。むしろ好きになりそうな体質だけに必死に避けているのである。
 もし俺が盆栽を始めれば、もはや草木を伸び放題にしておくことは出来ない。いい加減な肥料を好き勝手な時間にやることも不可能だし、旅行もいっさい出来なくなる。鉢植えのほとんどを手放し、それらをすべて松や梅に変えてしまうだろうし、品評会などに出入りして一喜一憂することになる。
 したがって俺は今日、危ない橋を渡るところだったのである。まさに一歩、まさに一瞬で俺は生活を変え、世界を変えてしまいそうだったのだ。
 結局野梅は剪定を受けず、自然児として何も知らぬげにそこにある。外を向いているように見えながら、しかしその背中で俺を誘っているのは明白だ。
 大変なやつにピッチャーをまかせてしまった。
 

       


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