FEBRUARY

ポトス/エアプランツ

●二月のポトス/受苦の強者(1998,2,24)

 レモンポトスをトイレに置いた。今度のベランダは少し狭い上、前のように壁が擦りガラスではないので様々な工夫が必要なのだ。
 もちろん、都会の植物主義者にとって、その工夫は喜びのひとつである。あれをこう置いて、これはあっちで我慢してもらってとほとんど家具の配置よりも熱い情熱を傾ける。
 ベランダ事情が厳しいのと飾り窓がない分、三方向から日が入るので窓際は大変な混雑である。カーテンが短かったのを幸いとして、俺はまず南向きの窓の前にびっしりと鉢を置いた。人間様は夜寒いが、植物どもは俺が眠っている時間から太陽の恩恵を受けることになる。これは見逃すわけにいくまい。
 去年からしまっておいたヒヤシンスの株や寒咲きクロッカスの株がすべて土に戻され、今その太陽最前線に鎮座している。調子に乗った俺は小さな鉢にルッコラや紫蘇の種までまき、隣に安置する始末だ。近くの丸テーブルの上にはバナナ、コーヒー、つい三日前に買ってきた西洋シャクナゲが並んでいる。
 南向きの窓は他にもあるから、俺はちょうどいい丈の家具を配し、その上に様々な植物どもを整列させた。西のベランダには残党が陣取り、少々の悪条件に負けじと歯をくいしばっている。
 そして、北向きの窓際だ。ここにはミントやら何やらと強い意志を持った小隊が駐屯している。さらに風呂の小窓には花の気配が皆無のラン一味。さあ、残ったのがトイレであった。俺はあれこれと迷ったあげく、ついにレモンポトスをその任にあたらせたのである。
 こいつはやたらに育っている。前の部屋にあった時は伸びる茎の処理に困り、カーテンレールを伝わせたりしていたものである。それでもやつは成長をやめず、部屋を支配しようという野望を感じさせたくらいであった。その恐ろしい進軍については、別な場所に書いた覚えがある。
 わずか直径十五センチほどの鉢から、ポトスは異常な数生まれ出て、しかも長く伸びている。したがって、俺は相当の空間をそいつに与えなければならなかった。だが、花も咲かないくせにニョキニョキやられても閉口する。こちとら都会の狭い不動産に余儀なく住んでいるのだ。楽しみのひとつも与えない輩に場所ばかり取られても迷惑なのである。
 そこでトイレ行きが決定した。言っておくが、これは観葉差別ではない。何よりやつは悪環境に強く、しかもそこなら壁伝いに勝手な進軍が出来るのである。なにしろ俺はやつのために茎をあらゆる物に引っかけ、領地を増やしてやったのだ。むしろ、ポトスは自分だけの王国を確保したも同然であった。なんなら便器に首をもたげて自ら肥料を獲得することも可能である。水がはねたら、即座にそれを吸収することもやぶさかではなかろう。めでたし、めでたし。そう思って、俺は日々を暮らした。
 ところが、昨日のことである。俺は人間ドックに行くために、便器の上でさかさにならなければならなくなった。あまりに短い説明なので、わけがわからないだろう。要するにまず検便をする必要に俺は駆られたのだ。さらに検便の説明書によれば、西洋式便器の使用者はいつもなら尻をむけている方向に頭をむけなければならないのであった。便が水の中に落ちてしまわないようにという便宜らしい。擬人化されたカワイイ大便が便器のフタを抱えるイラストがむやみにしゃくに触ったが、俺は仕方なくそのウンチ君の指示に従った。
 だが、俺は検便に集中する気持ちになれなかった。目の前に垂れ下がったポトスの葉の裏を、俺は初めてまじまじと見ることになったからである。以前にもそこは見ていた。だが、心の目は及んでいなかったらしい。
 ポトスは伸ばした細腕に点々と小さな根を作る。その律儀な様は承知していた。だが、その根の反対側に出来てくる葉の様子を、俺はなんとなく見逃していたのだった。すでに先へと伸びた腕の中途から、それは出ていた。 すでに出来上がった腕から剥離するようにして、葉は太陽の栄養を浴びようと頭をもたげるのである。
 問題はその葉柄の裏側であった。剥離して出来た葉柄は閉じることが出来ない。閉じようにもそこには腕がある。腕の表皮がむけて、もうひとつの腕が出来ているのだから当然である。だが、そのせいでポトスの葉柄の裏、むけた部分はすべて茶色くなっていた。
 傷である。ポトスは自らの腕から新しい葉を生やし、その度に傷ついてしかも癒えることがないのであった。これには俺も息を呑んだ。やたらに生い茂り、憎らしいほどの生命力を発揮してきたポトスが実は傷だらけの戦いを行っているなどとは夢にも思わなかったからである。
 俺は検便を忘れた。忘れて下半身丸裸のまま、ポトスを見上げた。しげしげと見れば、どこもかしこも傷であった。どこもかしこも傷で、しかし愚痴る様も見せずにやつは葉を広げている。なんという人生だろうか。いや、人生とはかくあるべきなのではないか! 俺は尻丸出しのまんまでポトスに頭を下げた。あんまり下げるとすでに出終わっている便に尻の先がつきそうであった。
 花の咲かないポトス。ただただ強い命を持ち、環境の変化に耐えるポトス。しかしそのポトスの葉の裏はまさに聖痕に満ちており、生き生きとした表情の奥の苦しみにあふれていたのである。
 二度とポトスの悪口は言うまい。俺はほとんど涙にくれながらそう決めて、つまようじみたいな形をしたおかしな器具を自分の排出した物体に五度ほど刺し、黙ってトイレを出たのだった。

  ●二月のエアプランツ/不意の贈り物(1998,2,28)

 今もそのエアプランツはある。
 小さな噴水のような形の、かさついた植物。いつの間にか株分かれして双子のようになり、鋼鉄の細い棒の上にちょこんと乗っかっている。数年前にもらったものである。
 贈り主は身長百八十はあろうかという大男。やつは昔、俺のマネージャーをやっていたのだが、不良あがりでケンカが強く、若い頃からの遊び人だったから、マネージメントをしているというよりほとんど用心棒のような扱いだった。
 独立したいと言い出した時も、なんだか新しい組を作りたいと言っているような気がしたものだ。かつての不良のよき部分として、やつは目上の者をきちんと立てることを知っていたし、気遣いもうまかった。それで年上の人間に目をかけられることが多かったのだが、ついに自分の責任で仕事をしたいと言う。俺は喜んで送り出し、やつは苦労しながらクラブなどをプロデュースし始めた。自然と会う機会も減っていった。
 そいつが数年前の夜中、突然電話してきたのだった。仕事が順調に行かないんすよとか、家賃が払えなくてとかいう報告が多かったから、おそらく金でも借りたいのだろうと思った。そうでなくては、まさか急に連絡してくるはずもあるまいと考えたのだ。
 すると、やつは今から遊びに行ってもいいかと聞く。断る理由もないから、俺は家で待っていた。三十分ほどして車の音がした。勢いよくドアを閉める音が続く。少し乱暴な仕草が想像されておかしかった。やつはチャイムを鳴らし、でかい体を揺らしながら部屋に入ってきた。
 しかし、話は要領を得なかった。いくら待っても借金の申し込みはなく、なんとなくの世間話を続けている。貸すような金のない俺は、いつ本題に移るのだろうと構えていたのだが、時間は懐かしく過ぎていくばかりだ。
 そこへ別の知り合いから電話が来た。元不良はすぐに気をきかせてその場を離れ、窓際の方へゆっくりと歩いていった。丸テーブルの上の鉢植えを眺め、時おり葉を触ったりしている。おかげでこちらは気兼ねなく電話を続け、先客がいたことなど忘れてしまいそうなほど会話に熱中した。
   電話が終わると、やつは猫のように静かにするりと元の場所に戻ってきて、またにこやかに話を始めた。朝方になるまで結局金の話は出ず、やがてそいつは邪魔してすいませんでしたと頭を下げて帰っていった。
 こちらはキツネにつままれたような気分だった。しばらく音沙汰のなかった男が前触れもなく現れ、二時間ほど楽しく話をして去っていったのである。わけがわからないまま、俺はやつが眺めていた丸テーブルのあたりまで歩いた。注目された鉢植えが誇らしくて、やつがどこを見ていたのだろうと気になったのであった。
 そこに見たこともないものがあった。俺はぎょっとして一瞬あとじさり、それがエアプランツであると合点して首をかしげた。買ったはずのない植物がなぜそこに転がっているのか。俺は混乱して、その場にじっと立ったままでいた。どこかの葉から虫が落ちたような具合で、エアプランツはごろりと無造作に存在していた。かわいらしいことに先端に紫色の花がついている。
 数秒後、俺は息をのんだ。じわじわと感動が押し上がってきた。その日が俺の誕生日だったことを思い出したからである。
 エアプランツは元不良からの贈り物だった。やつは何か贈り物をしようと思い立ち、しかし金のないのに思い悩んで家にあった植物を持ってきたのに違いなかった。最初に電話で聞いた、金に困っているという言葉はその言い訳であり、けして借金を頼もうとしたのではなかったのだ。
 やつはすでに車でどこかへ消えていた。俺は窓のカーテンを開け、去っていったはずの方向に頭を下げた。
 小さなエアプランツである。
 砂漠に育ち、空気から水分を得て命をながらえる乾いた植物である。
 そして、俺にとっては大事なひと株である。

       


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