OCTOBER

サボテン/ダチュラ

●十月のサボテン/サボテン一家(1997,10,21)

 キュウリみたいな形をした二本のサボテン。この一鉢は古株である。たぶん、もう四年くらいは様々な窓際に置かれたまま黙っている。
 もとはといえば、一緒に仕事をしていたスタッフからもらったのだった。誕生日のことである。いとうさんの性格にぴったりのプレゼントだと思うんですけど。そう言われて苦笑した覚えがある。
 俺はその頃、たまに切り花を買って来ては花瓶に活けるという趣味を持っていた。当時住んでいた場所の裏手に商店街があり、そこに小さな花屋があった。俺は一週間から二週間に一度はその花屋に行き、安い切り花のセットを買うことにしていた。
 花屋は妙に親切であった。少し具合の悪い花が混じっていれば即座に取り替えてくれたし、値段を下げてくれることもあった。ごく個人的な華道を楽しむ俺を理解し、同じく花を愛でる者同士としてエールを送ってくれているのだと思っていた。
 俺が定期的に買い求めていたその切り花セットが仏花であると教えてくれたのは、サボテンをくれたスタッフの一人であった。いつも買う花の種類と値段を言ったら、彼女は大笑いして俺に言ったのだった。
「仏壇に供えると思ってるんですよ、その花屋さんは」
 確かに、花屋はいつも「感心ですねえ」と言いたげだった。実際、必ずそういう顔をして俺に花束を渡し、深々とおじぎをした。怪しいものを感じながら、俺も深々とおじぎを返したものである。
 そのおじぎの交換が、実は死者を弔うべく行われていたことに俺は仰天した。実際花束には必ず菊が入っていた。そうでなければ曼珠沙華である。死人が喜ぶような花ばかりだ。
 しかし、誰も死んではいないのである。死んでもいないのに俺は毎週のように菊や曼珠沙華を買い求め、花屋はその感心な男に賛嘆と同情のエールを送っていた。しんみりしたムードでありがとうございますなどと背中に声をかけ、意味のない弔いに無用な花を添えていやがったのである。
 以来、俺はその花屋に出入りするのをやめ、あまつさえ引っ越しまで行なったものだ。
 無知な俺の失敗談はもういい。問題はサボテンだ。
 たいして水もやらずに放っておかれたサボテンはじき、頭をくいっと伸ばしたまま茶色く変色し始めた。こいつはいけないと思って、俺はようやく時期を見ては水と肥料をやることにし、変色した部分をなんとか乾かそうと日当たりのいい場所に鉢を移動させた。
 その間、三年である。頭を伸ばし、変色し、水と肥料を与えられ、太陽に当たった。それがなんと三年の間にサボテンに起こった変化なのだ。まったく気の長いことこの上もない。体中を針で覆い、いかにも神経質なふりをしながら、やつは実のところ意外なほどのんびり屋なのである。
 しかし、四年目の今年。やつに大きな変化が訪れた。まず根元近くから小さな子サボテンが出現したのだった。一歳児の小指くらいの可愛らしい子サボテン。そいつを発見した俺は狂喜し、デジカメでその小さな生命を撮り貯めしたり、そこに水がかからないよう注意しながら給水したりし始めた。
 子サボテンもまた気が長かった。いつまでたってもムクムクと成長することをせず、親の根元でもじもじし続ける。その気の長さに耐えきれず、俺は植え替えを行なった。根詰まりでも起こしていたら大変というのが表向きの理由だったが、実際はとにかくなんでもいいから世話をしたかったのである。
 このへんの微妙に馬鹿らしい気持ちはベランダーならわかるはずだ。植え替えなどこれっぽっちも必要ではないのだが、そのままでは高まる愛情とゆるやかな成長の折り合いがつかないのである。だから、不必要な世話をせざるを得なくなる。
 だが、サボテンの植え替えは思いの他苦労が多い。なにしろ、軍手をしていても針は指に刺さる。刺さるから思わず手を引くと、針が軍手にひっかかったままになり、バランスを崩したサボテンがベランダに倒れることになる。あわてて手を添えればまた新たな針が攻撃をしてくる。いらだって蹴りなどいれようものなら、せっかく高まっていたはずのあの愛情は何だったのかということになる。
 多肉植物用の白砂めいた土を盛り、その中央にサボテンの株を置くのだが、意外に斜めに傾ぐ。ここでも針による痛みと愛情の両天秤である。必死に形を整えてやるのだが、本人にはそんな愛情は通じない。やつはひたすら周囲を攻撃し、身を守るのみである。
 こうして、とにもかくにも大きな鉢に移してやり、軍手を脱いで穴だらけの指など見る。やり遂げた植え替えで、サボテンは自由を謳歌しているように思え、ベランダーはようやく十全な自己満足にひたる。これでよしなどとつぶやき、あやうくサボテンをなでそうになるが我慢し、かわりに少量の水をやる。
 そして、数ヶ月。
 今では子サボテンが五つに増えている。気の長いサボテンにしては珍しいほどの早さで、あれよあれよと株分かれしたのである。中のひとつなど、いったん閉じたはずの頭の部分から、新しい頭をくいっと伸ばしたりしている。生意気である。身長五センチの生意気。
 いかにも若い透明感のある緑に染まった子サボテンたちを見るにつけ、俺はあの時植え替えをしていた自分を誉め称えたくなる。指に穴を開けてまで頑張ったからこそ、ニョキニョキと子サボテンが生え出てきたに決まっているからだ。
 俺は毎日やつらを見る。思ってもみなかったサボテン一家の充実ぶりに目を細め、なでることだけは我慢してひたすらに眺める。愛情表現としての水やりも、相手がサボテンである以上控えなければならない。隔靴掻痒とはこのことである。
 したがって、今、俺は猛烈な欲望に突き動かされそうになっている。
 愛情を拒みながら可愛らしさを見せつけてくるサボテンにしてやれることといったら、この世にただひとつしかないのだ。
 植え替えである。


●十月のダチュラ/謎の侵入者(1997,10,27)

 ダチュラといえば、『コインロッカー・ベイビーズ』である。確かドラッグの名前に、村上龍はダチュラを使っていたのである。そもそも毒を持つダチュラはまた、俺の戯曲『ゴドーは待たれながら』の中でも象徴的な植物として登場する。
 主人公たるゴドーには、ベケットの向こうを張って(GODOTがGODに関係あるといわれる以上)弥勒の性格を持たせたものだった。いつか来るといわれているのに、あまり長いこと行くのを待ったために約束の時間を忘れているのだ。その弥勒の目の前に枯れた一本の木がある。仏の上に降り注ぐはずのマンダラゲとして、そして首吊り自殺をした男の精液から生えるといわれるマンドラゴラとして。
 マンダラゲもマンドラゴラも、俺の作り話ではない。そういう植物が実際あるのだ。確かそれがダチュラに関係あるか、ダチュラそのものだったような気がする。気がするというのは俺の記憶の異常な薄さのためで、書いている当時はあれこれと資料を集めたものだった。だが、忘れた。すっかり忘れてしまった。
 マンダラゲはインドでマンダーラヴァ。曼荼羅華というやつだ。近頃集中的に仏典を読んでいるので、このマンダーラヴァがやたらに世尊の上に降る。そうそう、思い出した。何かが降ってくるように思い出した。曼荼羅華、ダチュラはつまり朝鮮朝顔だ。別名キ×ガイナスビである。とんでもない別名だ。そんなものを浴びている仏たちもどうかと思うが、とにもかくにもダチュラの野郎は両極端の物語をあわせもった不思議な植物なのである。
 だからこそ、二年前だったか、花屋でダチュラを見つけた俺はいちもにもなくそいつを購入した。ラッパのような形の黄色い花がうつむき加減に咲いているあたりも怪しくてよかった。しおらしい顔などしているが、野郎はその身中に毒を持っているのだ。
 だが、毒持ちの狂ったナスビは、すぐにその花を落としてしまった。以来、咲かない。四季を問わず柔らかい葉がにょきにょき生えてくるのだが、残念なことに花には縁がなくなってしまったらしい。俺はいつでもたっぷり水をやり、そいつが再び黄色いラッパを持つことを夢見ているのだが、それもはかない望みのままである。
 そんな中、今年になって河内桃子さんからダチュラをいただいた。鉢植えをテーマにした番組で一緒になった時、是非もらって下さいとおっしゃったのである。もちろん彼女はダチュラとは言わなかった。ええと、また忘れてしまったわけだが、ダチュラの野郎は聖書を想起させるような別名を他にも持っているのである。東洋、西洋をまたにかけて、まるで007みたいなことになっているわけだ。その素敵な名前でやつを呼ぶ河内さんに、俺はまさかマンダラゲとかキ×ガイナスビとは言えなかった。
 届いた鉢は確かにダチュラだった。丈も以前から持っていたものと近く、うれしくなって並べて置き、丹念に水をやって育てた。
 ところが、である。三日前、ダチュラに異変が起きた。幸いなことに俺が育てていた方のダチュラなのだが、細長い葉がバリバリと食われていたのである。そう、まさにバリバリという感じで、もし人が噛みちぎったとすれば、かなりの大口だと思われた。むろん、俺は相手が人間だと思ったわけではない。これでも小さいころは昆虫博士になろうと願っていた男だ。ひと目見ればイモ虫の仕業だと判断できる。
 惜しいことに、俺はすでに大人になり、その手の虫を平気でつかめる感覚は失っていたので、おそるおそる近づいてみた。食われた葉の下に黒いフンが落ちていた。やつがいることは確かだった。こわいのは発見の瞬間である。隠れていたイモ虫を見つけてしまう瞬間は、ゴキブリが動き出した瞬間とほぼ同レベルでおそろしい。見つけるのはこっちなのに、なぜか「いっぱいくわされた」という感じがあるのがまた悔しい。相手にはくわせる気などまるでない。隠れたままでやり過ごせればそれでいいのである。
 さて、不思議なのはここからだ。イモ虫の野郎はどこにもいないのである。先端に数枚しかない葉のあちらこちらを見たが姿はなく、ならば茎だろうかと念入りに見るのだがそこにもいない。しまいには茎をジョウロで叩いてみたが、何が落ちるわけでもない。
 奇怪きわまりない事態である。まさか横のムクゲに……と思ったが、そちらを担当しているのはアブラムシの大群だった。ならばやはりイモ虫は、自分の当番たるダチュラ処理に専念しているはずである。だが、いない。気味が悪かったが、その日はあきらめて部屋に戻った。
 そして、今日……。ベランダに出ようとした俺は足がすくんで動けなくなった。ダチュラの葉が、芯だけを残してすべて食われていたからである。背筋が凍った。いくらなんでも早過ぎるのである。相手がそうとう大物でなければ起き得ないことが、目の前で起こっていたのだ。俺は蛮勇をふるってサンダルをはき、遠目でじろじろとダチュラを見た。しかし、またもやつは姿を消していた。大量のフンだけが残っていた。
 食っては隠れ、隠れては食う。そんなイモ虫は聞いたことがなかった。たとえ隠れたにしろ、大好物からは離れないというのが虫風情の知恵の足りないところなのである。ところが、俺のベランダに現れたダチュラ・イーターは虫らしからぬことをやってのけ、葉という葉を食ったのちに、どこか信じられないような場所にひそんでしまうのだ。
 嫌がらせといえばこれ以上の嫌がらせはない。葉を食われただけでも悲しいのに、やつは例の「発見の恐怖」を常に俺に持たせたまま、いっこうにその存在を現さないのである。
 俺はあやうく震え出しそうになりながら、まだ無事な河内さんの 鉢を遠くに移動させた。やつはすでにそちらの鉢にひそんでいるのかもしれなかった。土中に忍び入っていて、いきなり飛び出てくる可能性もあった。あるいは、ぽとりと頭の上に落ちてくることも想像された。パタパタとカラスめいた嫌な羽音をさせて、考えられないような場所から襲いかかってくるかもしれなかった。やつはただのイモ虫ではないのだ。虫を越えた生命、毒を持つダチュラさえも食ってしまう怪物なのである。
 ひょっとして……と今俺は考えている。『ゴドーは待たれながら』の中にも、マンダラゲの実がいつの間にか食われてしまっているシーンがあるのだ。弥勒のようでもあり、キリストのようでもあり、宇宙飛行士のようでもある主人公ゴドーは、近くに誰かがいるのかもしれないと思い、あるいは自分が食ったのかもしれないとも思う。じきに、ゴドーはあたかも猛毒にあたったかのように動けなくなり始め、「行こう」とつぶやいたまま舞台は暗転する。
 とすれば、食ったのは虫ではない。弥勒か、キリストか、あるいは俺自身が食ったのだ。救世主もしくはこの俺は黒くて小さなフンをするような存在ということになる。
 待っているのは救いか毒死か。
 そうでなくても、イモ虫の発見だ。
 俺のベランダは今、大変なことになっている……。

   


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