SEPTEMBER

オンシジウム/茄子

●九月のオンシジウム/捨て子を捨てる(1997,9,20)

 今月初めの真夜中、半透明の袋を片手にしてマンションのゴミ捨て場の扉をそっと開けると、可燃ゴミの棚の上に大きな鉢が置かれていた。
 見れば、時期の過ぎたオンシジウムであった。六本ほどの伸びきった茎を暗いコンクリートの壁に向かって差し出し、最も長い茎の先には咲き残った黄色の花をたったひとつだけつけている。細いうどんのような根は鉢からあちこちにはい出しており、今すぐ救助してくれとばかりに上目づかいで俺を見ている。
 大変なことになった、と思った。普通の人にはゴミでも、俺にとっては捨て子なのである。その場ではどうしていいのかわからず、俺はいったん部屋に戻って思案した。気がつけば片手のゴミ袋を持って帰ってきていた。激しい動揺があったのだと推測された。
 部屋にはすでに胡蝶蘭があった。何度も花をつけて俺を狂喜させた胡蝶蘭だが、今は茎を腐らせ、そのまま半年ほど新たな茎を伸ばす気配もなく、窓際の丸テーブルの下で隠居をしている。
 一度花の力を終えた蘭が再びその盛りを迎えることは稀有である、と俺は経験上知っていた。ベランダにもひとつ、買ってすぐに花の落ちてしまったパフィオペディラムがあり、ローリングストーンのマークみたいな葉をベロリと伸ばしたままでいた。
 もしゴミ捨て場からあの捨て子を拾ってきても、同じように長い舌じみた葉を茂らせているばかりなら俺は満足出来ないだろう。いずれ邪魔になり、俺は口に出せない罵声を心の奥にこだまさせて過ごすことになる。だが、一方で哀れな捨て子を放っておけない自分も明らかに存在していた。その奇特な俺はこう言っていた。
 見たか、ベランダーよ。都会の中産階級たる俺よ。あのオンシジウムが入った青い陶器のような鉢はかなり使い勝手がいいに違いないぞ。
 要するに、俺は鉢が気に入っていたのだった。善行なんてそんなものである。
 朝方、俺はもう一度ゴミ袋を持って、エレベーターに乗っていた。ゴミ捨て場に到着すると、心臓がドキドキしているのに気づいた。相手は捨てられた身である。俺はその捨て子を拾うのである。なんの悪いこともしていないというのに、俺は盗人のような気分になっており、鉢を抱え上げると大急ぎで部屋に帰った。
 水苔はカラカラに乾いていた。あわててたっぷりと水をやり、その日は肥料をやらずに しばらく調子を見ることにした。環境の変化に対応出来るかどうかを探りたかったのだ。幸い、水を吸ったオンシジウムは活き活きとしてきた。前の所有者が世話を怠っていなかったことは、こまめに切られた茎の残り方でわかった。おかげで、やつは捨てられたダメージもなく、水をゴクゴク飲んで一息ついたのである。俺は三日後に肥料のアンプルを差し、さらに様子を見た。花を咲かせ終えた茎どもはどれも背を伸ばしかけた。
 安心するとともに、俺は罪悪感にも襲われた。なにしろすべての株を育てるつもりはなかったからだ。明らかに役目を終えている茎が数本あった。前所有者もそれを知っていたからこそ、泣く泣くそいつを捨てたのだと思われた。しかも、俺は青い鉢を早くカラにして、他の用に足したかったのだった。
 あまり長いことそのままで世話をしていると情がうつること必死であった。一週間後、俺は自分の内面を空虚に保ち、床に新聞紙を広げた。鉢からすべての株を取り出し、六個の株をためつすがめつ見た。あからさまに傷んでいるものは「拾い親孝行」だった。捨てる理由を与えてくれ、心の葛藤を軽減してくれるからだった。
 俺はそいつらに感謝をしながら、半透明のゴミ袋に入れた。だが、まるで葛藤がないわけではなかった。「こんなゴミまがいの捨てられ方をするくらいなら、鉢ごと捨てられた方がましだったのではないか」という疑問が俺を責めさいなんだ。なにせ、こちらには鉢目当てという弱みがあった。そこを突かれたら、俺はおしまいである。植物がしゃべらないことに俺は猛烈な感謝をした。
 数年前、『捨て子を捨てる』という題名の短編小説を書きたいと思ったことがあった。内容をよくよく考えたわけではないけれど、おそらくその株を捨てている自分の複雑な心境を描こうとしていたに違いなかった。拾った時点では善人であるにもかかわらず、それを再び捨てるとなると大悪人に変わってしまう立場。それがどうにもこうにも面白いと考えていたのだが、まさか自分がその主人公になるとは予想していなかった。
 ともかく、最後にふたつの株が残った。どちらか一方を捨てれば、俺にも十分な世話が出来た。ひとつはまだ先に花をつけている株であう。もうひとつはやたらに元気のいい葉をつけた株であった。
 一般に、花をつける茎の伸び方は決まっている。大きな葉があり、その葉の根元を守るかのような、舌を小さくすぼめた形に似た葉がついていれば、その間から茎が生育する。しかも、すでにそこから伸びた茎があり、そいつが傷んでいれば、復活は難しい。すでに俺は胡蝶蘭の観察によって、その掟を心得ていた。
 残る二株にはどちらもその重要な葉があった。俺は迷いに迷った。迷いついでにゴミ袋から他の株を取り出し、それにも優柔不断な温情をかけたりした。心は千々に乱れ、わけもなく叫び出したいような気になった。新聞紙からこぼれ落ちた水苔が、作業途中でちぎれてしまった根とともに部屋のあちらこちらに散っていた。人を殺してバラバラに切断しているような錯覚があった。
 ついに俺は選考に残ったふたつの株を両方とも育ててみることに決め、急いでゴミ袋のふちを固く縛った。二度と迷わないぞという自らへの戒めであった。
 たったひとつ花を残した株は、他の部分から三本の茎を伸ばしかけていた。俺は集中的にそいつの世話をした。世話をすることで、捨ててしまった捨て子への罪を免れようとするかのような勢いであった。根をよく洗って新しい水苔の中に入れ、しばし放っておいてからアンプルを差し、固形肥料を埋め込んだ。 添え木を何本も立てて、ひょろひょろした新しい茎の手助けをし、水やりに気をつかった。
 すると、新しい茎のあちこちから互い違いに小さな芽が出た。一週間もしないうちに、それらが徒長した茎の芽でないことがわかった。玄米ひと粒ほどの大きさをした芽の表面に、少女のそばかすめいた茶色の斑点が浮き出たからだった。やつらは花の用意を始めたのである!
 俺はそれ以降、添え木の調子を直すにとどめ、なるべく放任主義でいながらなおかつ毎日のようにそのたくさんの花芽を見た。そして、三週間後の昨日、長い茎の先にまるで歌舞伎や文楽で使う芝居上の蝶のようにしがみつき続けていた花が落ちると同時に、新しい花がほろほろと開き始めたのであった。
 紋黄蝶じみた花は小さい。それは予想されたことであった。もしも少しでも大きく咲かせる気なら、俺はまず花ひとつしか残っていない茎を切り、新しい茎のうちで最も勢いのいいものだけを選んで、他を取りのけてしまうべきだったろう。しかし、それをしないのが俺のやり方である。  咲きたいやつがいれば咲かせてやる。咲くつもりがなくても元気がいいなら茂らせてやる。鉢が目当てでも、拾った植物の世話はしてやる。
 おかげで俺はあと二ヶ月ほど、妙に小ぶりなオンシジウムの黄色い花を楽しめそうである。問題は葉っぱだけで生き続けるもう一方の株なのだが、まあ捨てることはすまい。いつかその気になったなら、やつも花くらいは咲かせるだろう。そうでなくても、俺はのんびりとそいつにも水をくれてやり、太陽の当たる場所に置いておく。


●九月の茄子/千にひとつが永遠に(1997,9,28)

 ベランダには茄子もある。
 買ってきてから二年ほど経つのだが、今もさかんに花を咲かせている。
 花はもちろん薄い紫。中央の黄色が鮮やかだから、それ自体を楽しんでいることが出来る。葉は少しトゲのある表皮を持ち、触るといつも象の背中を思い出す。
 俺は昔、親のない子象たちを飼育する施設を訪ねたことがあった。場所はスリランカの内陸部である。そこで触った象たちの皮膚の具合は、なんとも言えずショッキングだった。いや、別にそいつらが異常なわけではない。 象に触れるのが初めてで、まさかそれほどの剛毛がまるで針金のように長く伸びているとは知らなかったのである。
 その後、タイのスコタイや中国のシンセンで象に乗ってみたりした。どうやら大人の象よりも子象の毛の方が長い様子だった。子象の場合、なんでそれほどと思うくらいの長さで毛がひょろひょろと立っており、そこに死んだ虫なんかがひっかかっていたりする。
 それを見たときの、あまりの“かわいくなさ”は俺の心を傷つけた。ダンボは言うに及ばず、俺たちは数々の絵本や漫画で子象を見慣れている。なんともいえずかわいいものだと思っている。まさかそいつの背中にほやほやと曲がった針金のような毛が立っていて、 なでようにもなでられないことは知らない。無理になでても触れるのは針金の先で、しかも子象が意外なほど臭いことに無知である。
 だからといって、俺は茄子をないがしろにしているわけではない。わけではないが、やつには虫がつきがちである。どこからわくのか知らないが、放っておくといつの間にかアブラムシに覆われていたりする。あわてて防虫剤をまいてやるのだが、薬の強さで葉がうっすら白くなったりもする。少し不気味である。その不気味さが、また子象に似ている。
 いや、本当に信じていただきたいが、俺は別に茄子が子象みたいでいやだといっているのではない。それが証拠に俺は茄子を様々な位置で育て(一方で他の鉢に迷惑がかからない位置という意味でもあるのだが)、ついに虫のつかない場所を発見してそこで育てているのである。ベランダの左隅、ほとんどファームみたいな地帯だが、おかげで茄子はいつになくスクスクと伸びている。
 ある時、俺は花屋の前で他の植物を眺めていたのだった。すると、品のいいおばあさんが近づいてきて、あら、茄子を見てらっしゃるの?と言ったのである。見ていないというのも失礼だから、はい、茄子を見ていましたと答えた。再現すると馬鹿みたいな話だ。
 おばあさんはにこやかに微笑んで自分も茄子を見下ろし、こう続けた。
「親の意見とナスビの花は千にひとつの無駄もないって言うんですよ」
 一瞬、意味がわからなかったが、何かいいことを言おうとしている感じは理解出来たので、急いで、いい言葉ですねえと相づちをうった。
「ね? 茄子の花は必ず実をつけるのよ。親の意見も同じ。聞いておいて無駄はないの」
 そこで初めて格言の全貌をとらえた俺は、ますます大きくうなずいてみせ、ついでに余計なため息までついて感心したふりをした。
 俺は年寄りの話を聞くのが好きなのである。しかも、相手は前髪をまっすぐに切り揃えた妙な男に話しかけてくれたのだ。その恩義に報いなくてはならないと思った。いい青年を演じきって、そのおばあさんの一日を明るくしてやりたかった。
「はあ、そんな言葉は知りませんでした。いい格言ですねえ。親の意見とナスビの花は……」
 覚えていなかった。しかし、言葉にはすでに名調子がついてしまっている。帰結がなければすべてが御破算だった。一瞬にして親の意見と茄子の花の共通点を探し出そうと焦った。
「ええと、ナスビの花は……ええと」  なかった。共通点などみじんもないからこそ、格言は面白味を増すのである。幸いおばあさんは微笑んで繰り返してくれた。
「千にひとつの無駄もない」
「ああ、無駄もない」
 俺の脳みそこそ無駄であった。
 ここでなんとかしなければと思った俺は、すかさずその茄子の鉢を手に取り、
「僕、これを買います」
 と好青年を装い、悪化する事態の好転を狙った。それで他人の親への孝行が出来るなら、本当はそっちが欲しかった茄子の横の鉢をあきらめることなどたやすかった。
 こうして俺はやつとつきあい始めた。驚くべきことに、いきなり最初の花が落ちた。二番目のやつはなんとかチビ茄子くらいにまではなったが、それ以上育たずに枯れてしまった。
 以来、茄子はアブラムシなどをふんだんに付けながら、しょっちゅう蕾をつけ、しょっちゅう咲く。そして、咲いては落ちる。
 植え替えもしてやった。土に栄養も混ぜ込んだ。それでも無駄である。千にひとつの実さえつけることがない。
 あたかも子象が実際にはかわいくなかったかのように、格言は現実を前にしてもろくも崩れ去った。だが、ガミガミと精力的に挑んできては、立ち向かってみればふがいないほどの早さで散っていくナスビの花は、少なくとも親の意見との真の共通点を俺に教えているのである。

            
 


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