AUGUST

金魚/蓮/朝顔再び

●八月の金魚/反対に生きるもの(1997,8,8)

 シンポジウムを終えて紀州から帰ると、水槽の金魚が二匹水面に浮かんでいた。一匹は黒ずみ始めた腹を見せ、もう一匹は(半年以上飼っていた赤一号だ)かろうじて生前の姿勢を保ちながら、しかし片目を白く変色させていたのである。五匹いたメダカのうち二匹もまた、真っ白な体となって水底に沈んでおり、俺は言葉ひとつ思い浮かばぬまま、やつら死者を網ですくい、ベランダにある大きな鉢の土の奥深くへと埋葬した。
 固形エサも入れておいたし、日があたりすぎないように水槽の位置も工夫してあった。匂いからするとどうやら水が腐っていたのだが、それが死の原因か、死から引き起こされたものかわからなかった。
 以前、白一号が唐突に死んだときも俺は不在だった。果たして、自分がいればその死を予感し、未然に防ぐことが出来たのだろうか。メダカ三匹のみが残った水槽を前にして、俺はぼんやりと考え続けたものである。
 いつでも、すきを狙うかのごとく、やつらは死んでみせる。ほんの少しの時間を使ってやつらは万全に死を用意し、その目的地に向かって一気に走る。数日間調子が悪そうにしていれば俺も対策を講じることが出来るのだが、やつらの行動ときたらいくら何でも突然である。まるで雷にでも打たれてしまったように目を丸く開けたまま、やつらは死んでしまうのだ。
 いかにも自分は突然死にましたと言わんばかりである。あなたは私が死ぬ瞬間をご覧にならなかったようだから、そのまんま浮かんでいてお見せしましょうという感じがする。ゆっくりゆっくり理路整然と死んだ様子がない。これこれしかじかで具合が悪くなり、しかもあれこれと事情が重なりましたという筋が通っていないのだ。
 金魚の死に方とはかくも不条理なものかと痛感した。痛感し、茫然としたままベランダに出た。あたかも金魚のかわりのように、ムクゲが一輪咲いていた。いや、咲いたあとのしおれた残骸を見せていた。見れば隣にもしおれた朝顔がふたつ、波打ち際の風船みたいな格好になってうなだれている。
 どちらも俺が見ていないすきに咲いたのである。咲いておいて水が足りなくなり、それですっかりしおれてしまったのだ。俺はあわててやつらにたっぷり水をやり、あっちこっちひきつれてしまった花弁を丁寧に開き直しておいた。小一時間もすると、朝顔は案の定 花らしいそぶりでみなぎり、最も盛りだったであろう頃の八割の姿を取り戻した。
 植物はこうして、ゆっくり死のうとする。少なくとも、死に至るいきさつをその体に残そうとし、しかも唐突に生き返る。唐突に死に、ゆっくり生きようとするのが動物だとすれば、植物はまったく反対の生命の形を持っているのだ。いわば、俺たち(俺と植物)は入り口と出口を逆さまにして生きていることになる。
 俺はぼんやりとそう考え、再び水槽の前に戻って、見るともなくメダカどもに目を向けていた。水を替えてやった水槽の中では、驚くべきことに水草が激しい光合成を始めており、ぶくぶくと酸素の泡を吹き出させていた。
 先日新しく買ってきて以来、その水草はまったく呼吸の様子を見せていなかったのである。元気がなく、死に向かっているのだろうと思っていた水草は、あろうことか金魚が死んだ途端、何を思ったか活き活きと二酸化炭素を吸い込み、酸素を吐き出し始めたのだ。
 だから植物は困る。植物は生の時間を途切れ途切れにし、唐突にそれを謳歌しては黙り込んでしまうのである。壊れた時計のように勝手に時を支配し、しかし我々人間よりはるかに敏感に陽光を計測し、季節を区切るのだ。
 これみよがしに息を吐き続ける水草をじっとにらみつけて初めて、俺は死んだ金魚が哀れだと思った。唐突に生き返らない動物の体が哀れだし、ゆっくり体を大きくしてきた今までの毎日が可哀想だった。
 金魚の死骸の上に何かの種をまいてもいいと思っていた。だが、俺はその計画をやめにした。動物を覆い隠して繁茂する植物に、俺は初めて憎しみを感じたのである。


●八月の蓮/憧れの果て(1997,8,22)

 絶対に買わなければならないと思いながら、一方で絶対に買ってはならないと思いつめ続けてきた植物。それが蓮だ。
 そもそも金魚を飼ったのも、蓮の鉢にわくボウフラを食わせ、同時にエサをやらずにすませるという俺の遠大な計画があったからだった。
 なにしろ、蓮はベランダー界の鬼門だ。美しいが重い鉢が欲しくなるし、引っ越しも大変になる。それより何より、蚊がわけばお隣に迷惑がかかる。今でさえ俺のお隣さんは、毎朝ベランダに水をまいているくらいだ。おそらく、俺のベランダの土が風に乗って移動しているのである。この上、蚊まで移動してしまうことになれば、俺は自責の念で蓮の鉢に頭を突っ込み、窒息死を選びかねない。だからこそ、俺は蓮計画を断念し、水草など飼ってお茶を濁していたのである。
 八月の初め、なじみの花屋の店先に蓮が出た。憧れの花だから、俺は前を通る度に横目でちらちらと見た。買ってはならないと自分に言い聞かせる反面、やはり欲しくて欲しくてたまらなかった。その時はまだ金魚が死んでいなかったから、新しい金魚を数匹買って鉢の中に放してみたいものだと妄想を広げ、ドジョウはどうだろうなどとわけのわからない考えにとりつかれて金魚屋をのぞいたりした。ある日、とりあえず知識として世話の仕方くらい聞いておきたいじゃないかと自分をだまして、花屋の中に入った。
 入った時点ですでに買ってしまうことは目に見えていた。見えていたくせに、俺は他の花など熱心に見るふりをした。たまたま店主がいた。俺は可愛らしい小さな花を見つけてその名前を聞き、へええなどと言って買ってみたりした。そいつは今も、ベランダ近くの窓際で丈夫に咲いているが、名前はまったく覚えていない。蓮の犠牲者である。
 やがて、俺はおずおずと、ええと、あの蓮のことなんですが……と切り出した。店主は質問が終わるのも待たずに答えた。ああ、あれね、水さえやっておけばいいから楽だよ、いい蓮だし、花が終わったら肥料としてニボシを二匹くらい差しておいて下さい、あなたは今から家に帰るところかな、帰るんだったら車で送って行きますよ、蓮と一緒に。
 普通の人にはわからないだろうが、店主の言葉は様々な方向から俺を刺激した。まず世話が楽なのである。しかも、ニボシをやるというスズムシ飼育みたいな面白さがあった。その上、即座に運んでくれるという。さらに俺は他人の車に乗っけてもらうことが好きであった。子供の頃、田舎の叔父さんのバンで畑まで行くのが何よりの楽しみだったのだ。
 自分の子供っぽさを存分に刺激されながら、俺は必死に耐えた。いや、そうはいっても陶器の鉢まで買うことになるんだぞ、しかも金魚が増えてしまうのだ、台風が来れば泥があふれ出して、お隣のベランダを襲うことにもなりかねないし、泥だけならまだしもそこには金魚まで泳いでいることになる。
 だが、俺はそのわずか五分後に店主の車に乗っていた。
 こうして、その日の午後、蓮は俺のベランダの端に鎮座した。朝な夕なとはこのことかと思うほど、俺は毎日蓮を見て暮らした。泥の中から健康な茎を伸ばすその様子や、ふたつの蕾がこころもち重たげに首を傾げる様は、いくら見ても見飽きなかった。
 美しい柄の鉢などは必要なかった。ヌカミソの入れ物みたいな桶に入ったまんまで、蓮は十分にカリスマを発していた。夏のベランダで鉢に水を張っている以上、金魚を飼うことは不可能だった。ボウフラさえ即死するほどの熱を持つのである。数日後からは花が開いた。濃いピンクの花弁をほころばせ、黄色いオシベを揺らす蓮の花はまるで天上の生き物のように優雅に息をしていた。俺はたまらずデジカメを持ち出し、その香しい花を様子を撮り、丸い葉の上に水晶のような形を作る水滴を撮り、すっくと伸びる茎の緑を撮った。
 撮っておいてよかった。二日ほど家をあけて帰ると暑さで水が干上がり、丸い葉の周辺部がすべて灰色に変化して、内側に巻き上がっていたのある。幸い花は終わったあとだったので、残った泥に頭を突っ込んで窒息死するような気分にはならなかった。カラカラと風に揺れる葉を見ながら、俺はこの形を花だと考えたらどうだろうと考えた。
 確かに、乾いた葉は一定の規則にしたがって巻き上がり、しぼりのゆるい巾着袋のような形になっていた。蓮自体が死んだ様子はなかったので、俺はすぐに立ち直り、再びその乾いた葉を毎日眺めて暮らした。
 やがて、落ちた花の跡が蓮根に似た姿になった。真ん中にひとつ、それを中心にして五つ、合わせて六つの穴があり、それぞれの穴の中に種が入っていた。一度乾いてしまったからか、種は穴よりよほど小さくなっており、まるでお椀に乗った一寸法師であった。揺れる茎のてっぺんにいて、一寸法師はいつまでも穴から落ちない。
 その様子は、仏像が蓮華座の上に座っているようにも見えた。蓮を日常的に見る国々の仏教徒は、おそらく長い歴史の中で同じことを思い続けてきたに違いなかった。だからこそ、蓮は仏教のシンボルなのだとさえ俺は納得した。
 何日も経ってから、俺は穴から種を取り出し、ほとんどを泥に投げ入れた。ブッダが衆生の中に身を置くかのように、種は水の上をただよった。残しておいたふたつの種は水を張った小さなグラスに入れ、台所に置くことにした。
 だが、種はいっこうに根を出す様子もなく、殻を破って飛び出したブッダが天上天下唯我独尊と宣言する気配もなかった。妙にやせ細り、リスにやるヒマワリの種のように乾燥した種は、やはり死んでしまっているらしい。
 俺は今から、からからに乾いた葉をすべて刈り取ろうと思う。泥の底からは、すでに細長い葉が経巻物みたいな形で新しく伸びて来ている。俺はそいつを丹念に育て、来年再び花を咲かせたい。そして、活き活きとしたブッダを蓮華座の上に迎え、泥の中へと投げ入れてやるのだ。
 その時には金魚を買ってきてもいいだろう。やつらは生まれたてのブッダを見守ることになる。そんな大役をおおせつかった金魚なら、よもやブッダも死なせまい。


●八月の朝顔/ベランダーの矛盾(1997,8,25)

 朝顔は次から次へと咲く
   だが、困ったことに都会のベランダーのある種の生活として、俺は朝方眠って昼過ぎに起きるのである。
 眠る前には湿った唐傘のような、解けかけた蕾の柔らかな生命を目撃出来る。ああ、またひとつ朝顔が咲くのだと胸ふくらませる。
 だが、起きた頃には花は咲き終え、萎えているのだ。雨の道路に落ちたティッシュのようにすっかり溶け出してへたった花。
 まったく、朝顔はなぜ朝顔なのか。


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