55-4-13(野次馬と「遺作」 99/11/11)



「遺作」を“観客が覗いている状況そのものを含んだ作品”と見る者は少なくない。パ フォーマンスアートが一般化した現在ではなおさらのことだろう。だが、彼らはデュシャ ンの歴史を知らない。重要なことのひとつは、デュシャン自身が生前人知れずこの作品を 作り続けており、つまりデュシャンこそが二十年の間それを覗き続けていたという事実な のである。
“観客が覗いている状況そのものを含んだ作品”を「遺作」の意味とすることは、観客そ のものの位置を低くする。作品は観られることによって、観る主体の奴隷の位置に置かれ るからである。ところが、「遺作」を“観客が覗いている状況そのものを含んだ作品”と すれば、主体であるはずの観客は奴隷化する。確かに、いかにも近代以後という印象は受 ける。
 だが、しかしその「見ている者を見ている」者はどうなるのか。その者はAという観客 さえも奴隷化して君臨するまなざしを持つことになる。そんな特権化をデュシャンが許し たはずもない。

   むしろ、デュシャンその人こそが、穴の中を覗いていたのだ。穴の向こうを把握しよう と右に動けば、中にあるものは左に動く。左を見ようとすれば右に動く。上に行けば下 へ、下なら上へ。まさにツークツワンクによって見合ったキング同士のように動きは終わ らない。終わってしまったのは偶然デュシャンが死んだからに過ぎない。死ななければワ ルツは続いていたのである。だからこそ、「死ぬのはいつも他人ばかり」という墓碑銘 は、まさに「遺作」を暗示するようにしてある。
 大事なことは、しつこいようだが「デュシャンこそが二十年の間それを覗き続けていた という事実」以外にないと今は思われる。オポジションの状態にあった一方のキングは、 穴のこちら側、作品の外側にいたデュシャンだったのだ。僕はこれまで、中がデュシャン だと考えていた。それはあやまりである。
 我々はさらにゲーム自体の外側にいる。我々は「遺作」に対して“火急の情勢をのぞきに きたやじうま”であるに過ぎない。作品を奴隷化するまなざしを持った主体でもな く、他の観客を特権化された位置、つまり背後から見る王(相手からまなざしを受けない ことは王の特権であった。それは西洋哲学における常識だ)でもなく、ただの野次馬なの である。
 ただ、前項でも述べたように野次馬こそが、無根拠なコミュニケーションに意味を見出 す。我々はデュシャンにとっての“他者”として「遺作」をのぞき込み、そこに成立して いるはずのオポジションを推定する。キングであるデュシャンの位置にかわりに立ち、た とえデュシャンが死によって実際の運動が断ち切られた今も、永遠のワルツを踊ることが 出来る。
 チェス的にはそうなる。
   そうなるはずだ。

   



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