
55-3-7(ルーセル定跡の概要)
ルーセルが、発見したと言い張る定跡。
それはチェス的にいって、ほとんど価値を問うことの出来ない奇妙なものである。
岡谷先生からいただいた資料を赤間啓之氏に簡単に口訳してもらいながら、僕はあっけにと られたものだ。これが果たして本当に名手タルタコーバの賞賛した定跡なのか、あるいはデュ シャンの大著と並べて考えるに足る思考なのかと肩すかしをくったのだ。
だが、その棋譜をかき抱くようにしながら、ルーセルは死んだ。『私はいかにしてある種の 本を書いたか』という文学上の爆弾とともに、彼はその不可思議な定跡を、自分が生きた証と したのである。
まず、定跡発表の定型として、前置きがある。”ビショップとナイトを使った王手詰めは、 過去ドゥレタン氏の三角方式として様々に考えられてきた”。三角方式をくわしく語るのも面 倒だし、僕もそれほどくわしくはないので短くはしょると、盤面の隅に追いやられた敵のキン グを”ビショップとナイト、そして自分側のキングの三駒でどうやって詰めるか”に関する法 則のことだ。
その難題を”魔術的な方法で””どんなアマチュアの頭にもすっと沁み入る定跡”に変えて しまったのがルーセルだと前置きは言う。
その後、文章は幾つかの例を挙げながらテーマに説明を加え、やがてたった四行の『レーモ ン-ルーセル式定跡』が発表される。
「白のビショップは、自分側のキングの協力によって、黒のキングをさらにせばめられた包囲 網の中に閉じこめておく。その時、白ナイトの役割はセディーユの位置にあるか、または将来 的にセディーユの位置に置かれることに限定される」
”セディーユの位置”とルーセルは言う。フランス語表記において、Cの下に付けられるあの ヒゲがセディーユである。御存知のようにセディーユが付くと、Cはカ行からサ行の読みに変 わる。
ビショップの斜め下にナイトが控える状態。ルーセルによればそのビショップがCで、すぐ 下につくナイトがにょろりとしたヒゲである。難しいことは考えず、相手キングを囲んだら必 ずその形を保持しなさい。Cにセディーユを付けるようにして、ビショップの斜め下にナイト を置くと覚えなさい。ルーセルはただそう言っているだけである。
ある種のチェス記憶術みたいなものを、彼は文字そのものの構造を比喩にして提示した。 みもふたもないが、タルタコーバたちを相手にチェスを学びながら、ルーセルは「つまり、三 角法というのはビショップにセディーユを付けるようなものですな」と言い出したのではない だろうか。難しい読みの数々を捨象してひたすら攻めの際の駒同士の形のみを抽出し、おかし な比喩を使ったのである。
素人によるその素朴な一言を、タルタコーバは誉めた。それはまさに貴方ならではの定跡の 発見です、私たちにはそれほど簡潔なる法則が見出せなかった、と。
そこでルーセルは有頂天になり、薦めにしたがって『レシキエ』に定跡発表をする。ある意 味、哀れな姿である。本人が納得するような誉め言葉にルーセルは飢えていた。それを利用す るかのように、タルタコーバはルーセルの記憶術を雑誌に掲載してしまう。
定跡と呼べるようなものかはともかくとして、確かに発想はルーセルらしい子供っぽさと記 号性に満ちている。ここで僧侶の陰に隠れる騎士の姿を見たのなら、彼は単なる物語作者に過 ぎない。ルーセルの真骨頂は、ナイトのあのくねりを文字のヒゲに見立てる異様さの中にある だろう。
それが茶番に過ぎなくとも、ルーセルはおかしな定跡を堂々と世に問うた。あるいは、ポー ンと盤面の関係を時空間の象徴として語った。すべてはデュシャンになるため、デュシャンに なりきって存在するためだというのが僕の非常識な想像だ。というか、そう考えなければルー セルの唐突な行動の意味が読めてこないのである。
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