55-3-12(ソシュールにとっての祖語)



 ソシュールの言語学生活もまた、インド・ヨーロッパの祖語から始まっていることは以前書 いた通りである。その道の大家、ピクテの『印欧語の起源』を、少年ソシュールは愛読してい た。

 だが、ジュネーブ大学就任講演でもわかるように、ソシュールはピクテが「絶対的な価値を 信じすぎていた」としりぞける。『一般言語学講義』の中でもこう書かれている。

「どんな社会も、先立つ世代から相続し、そのまま受けとるべき所産として以外の言語を知ら ず、また知ったためしもない。言語活動の起原問題が、一般世人の思うほど重要性を持たない のは、そのためである。それは提起すべき問題でさえない」

 親たちの言語を我々は習得する。その親たちは上の世代から言語を相続している。そうした 「先立つ世代」の言語を考えることは、通常必ず起源への遡行を導く。親を遡って我々は唯一 無二の祖語を見出そうとする。

 しかし、ソシュールはそうした思考を断絶せよと言う。「それは提起すべき問題でさえな い」と一刀両断に切り捨て、思考の罠から逃れ去ろうとする。たとえ起源に無限に近づいて も、その親はやはり言語を持っていたということになる。いつから言語があったのかと問うこ とさえ、もはや出来なくなる。

『一般言語学講義』中、チェスに触れた箇所以外で最も異様なのはこの部分である。徹底的な 起源批判。簡潔な言葉で語られながらひどく難解であり、決してソシュール入門書に書かれる ことのない核心。

 しかし、彼がチェスの比喩を持ち出すことの”起源”はここにしかない。駒が今ある位置に 「どの道をとおって達しようが、ぜんぜんかまわない」と言い、「私はこの比喩を手放さな い」と言うのはそのためなのである。

   



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