55-1-6(ルーセル生涯の概略)



 作家レーモン・ルーセルは一八七七年、パリに生まれる。

彼が生涯忘れることが出来なかったのは一八九七年、一九歳の時に感じたある熱狂的な栄 光感だった。『代役』という処女詩作を書いている際、ルーセルはこんな発作的状態に陥 ったのだった。「私の書くものは光輝に包まれていました。私はカーテンを閉めました。 といいますのは、自分のペンから出る輝ける光線を外に漏らすようなどんな些細な裂け目 も恐れたからで、私は突然幕を引いて世界をこの光で照らし出したかったのです。詩を書 きつけたこれらの紙を散らかしておいたら、中国にまで届くような光線を発したであろう し、すると熱狂した群衆がこの家に殺到したでありましょう」(『レーモン・ルーセルの 生涯』フランソワ・カラデック 北山研二訳)。

 しかし、『代役』はなんの話題にもならない。失意のために発疹まで起こしたルーセル は、それでも栄光を求めて『眺め』(三番目の詩は『泉』と題される)や『つまはじき』 など幾つかの作品を執筆し続け、一九一〇年、三〇歳を過ぎてついに屈指の代表作『アフ リカの印象』を出版する。当初まったく話題にならなかったこの作品は翌年パリ・フェミ ナ座で上演され、さらに次の年アントワーヌ座で再演される。ルーセルの栄光はこの年に 始まった。あまりのわけのわからなさがスキャンダルとなったからであった。

 シタールを弾く大みみず

 頭が体と同じ大きさの矮人フィリッポ

 自分の脛の骨で作ったフルートを吹くレルグアルシェ

 仔牛の肺臓で出来たレールの上を走る鯨のヒゲ製の彫像

 こだまを響かせるアルコット兄弟の痩せた胸

『アフリカの印象』から舞台化されたシーンは、そのどれもが異様なものだった。観客は ルーセルに”焼きリンゴを投げつけた”という。だが、再演を見ていた者の中にデュシャ ン、アポリネール、ピカビア、そして当時ピカビア夫人であったガブリエル・ビュッフェ らがいた。彼らはその奇妙な芝居から多大なる刺激を与えられたのである。いや、四人だ けではない。ルーセルの作品を賞賛したのはジャン・コクトーであり、アンドレ・ブルト ンであり、ダリであり、ミシェル・レリスであった。のちのダダイスト、シュールレアリ ストの大物たちがこぞってこのルーセルに影響を受けたのである。

 しかし、誉め称えられる側のルーセルは、御存じのようにこう言っている。「僕はダダ イズムというのがまるでわからないんだ」、と。ルーセルが理解し、愛したのはあくまで も『八十日間世界一周』のジュール・ヴェルヌであり、南洋小説を書いたピエール・ロテ ィであった。希代の変人ルーセルはそれら大衆的な作家を熱愛し、大衆からの支持だけを 恋い焦がれた。自分が二十世紀の美術に巨大な影を残すことに、彼はまったく興味を示さ なかったのだ。

 ルーセルはその後『ロクス・ソルス』を発表し、またも舞台化。こちらも観客の怒号と 賞賛を浴び、第二のエルナニ事件と呼ばれるほどのスキャンダルとなる。以後、『額の星』 『無数の太陽』を執筆するがいずれも評価されず、やがて都合七年をかけたと本人がいう 『新アフリカの印象』完成を一九二八年に放棄。もはや何も書かなくなる。いわば、ルーセ ルの沈黙といえる。

 ルーセルはある種病的な規則狂でもあり、毎日三時間は必ず仕事をしていた。それも” 時間きっかりに始め、時間きっかりに終わる”サイクルを、数十年変わることなく続けて いた。また彼は、誤字脱字を見つけた印刷工に懸賞金を与えていたほどの完全主義者でも ある。そのルーセルが作品を未完にし、四年後の一九三二年に出版するまで何も書かない のは異常なことである。

 睡眠薬中毒に陥ったルーセルは、ついに一九三三年、イタリアのパレルモで自殺に限り なく近い死に方をする。『レーモン・ルーセルの生涯』にしたがって正確に数えれば、享 年五十六歳。だが、のちに書くようにルーセルはもっと早く死のうとしていた。

 ルーセルの伝説的生涯はこれで終わらない。なぜなら、死後発表するように指定した『 私はいかにしてある種の本を書いたか』という文章の中で、彼はまさに”自分がどのよう な法則によって書いたか”を明かし、彼の支持者たちを震撼させるからだ。沈黙の間、ル ーセルはひそかにその死後刊行本にとりかかっていたことになる。その法則の詳細はいず れ説明するとしてひとまず短くまとめておくならば、ルーセルは奔放な想像力の所産と思 われていた作品を、ひたすらに言葉のずれ、つまりアナグラムの厳格な規則化によって形 作っていたのである。



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