55-1-1

「チェスはフランス語でechec、つまり敗北という名のゲームである」



 大学時代だから、今から十数年前のことである。

 強い思い入れのある三人の人物がみなアナグラムに関り、謎のような沈黙の時期をそれ ぞれチェスに興じるという不思議な共通項に僕は異様な興味を持った。その三人とは言語 学者フェルディナン・ド・ソシュール、奇妙な天才作家レーモン・ルーセル、現代美術の 大家マルセル・デュシャンである。

 当時古本屋で買ったルーセルの代表作『アフリカの印象』の訳者あとがきはこう結ばれ ていた。「治療のため、スイスの療養所へ発とうという日の明け方、床にじかに敷いたマ ットレスの上で、ルーセルは死んでいた。五十五歳だった」

 五十五歳はまたソシュールの亡くなった年齢でもあった。「ついに一九一三年二月二十 二日の夕刻、夫人の持家であったヴュフランの城で静かに息をひきとった。享年五十五歳 であった」(『ソシュールの思想』丸山圭三郎)

 ある時、僕はおかしな予感がして東野芳明著『マルセル・デュシャン』を開き、年表を 見た。するとデュシャンは五十五の年、アメリカ定住を決めていたのだった。何も作らず に過ごすというデュシャンの伝説的な沈黙はその年に始まったといってもよかった。少な くともデュシャンは祖国を離れ、まったく別の環境で生きることにしたのである。

 なぜ、みんな五十五で人生を区切るのだろう。

 単なる偶然を必然のように考え、ゾロ目が持つある種魔術的な力にワクワクしたのは、 その年自分が二十二才だったからかも知れない。五十五歳まであと三十三年。それまでに 、彼ら三人の共通項から何かとてつもない秘密を探り出せるかもしれない。無学で若いだ けの僕はそう思って興奮した。同時にその秘密が自分を沈黙させはしないだろうかと余計 な心配もした。秘密は言語の奥底にあると考えたからである。いや、正確にいえば三人が 共通してたどり着いたのは言語の秘密そのもので、それこそが彼らを沈黙させたと僕は思 い込んでいたのである。

 三人をつなぐ共通項、アナグラム/沈黙/チェス/55は一体どのような言語の秘密を 現すのか。いつかきちんと考えようと決めたまま、時間は刻々と失われていった。僕は三 十六歳になっていた。あわててチェスを覚えることにした。鍵はチェスの中にあると思っ たからだった。自分のホームページ上でメイル・チェスなる変わったゲームを始めると、 僕は不特定多数の人間を相手に何局もさしてみた。少しだけチェスがわかってきた。その ままさらに一年が過ぎた。

 そろそろ一番大切なゲームを始めてみなければならないと思った。ソシュール、デュシ ャン、レーモン・ルーセルの生涯を交差させ、その思想をチェスから解き明かしてみると いうゲーム。

 そう思って資料を読み直し、疑問のいちいち、仮説のひとつひとつを各分野にくわしい 知りあいにメイルして議論し始めると、驚くべき事実が次々に出現し始めた……。したが ってこれから書かれることのかなりの部分は、それらメイルやファックスでの協力者から の刺激によって成り立っている。

 一人は会ったこともないアマチュア・チェスプレイヤーのO君。

 それから東工大の赤間啓之氏。

 こちらもメイルのやりとりだけで実際は顔も声も知らずにいるままの、美術を専門 のひとつにする翻訳家・芹沢高志氏。

 その他様々な人たち……。

 だが、僕らが共有する情報はあまりに複雑に重なり合っており、ゲームをチェックメイ トで終わらせることが出来るかはまったくわからない。そもそもそこに問題が横たわって いるのかさえ、実のところ今の僕には皆目わからないのだ。

 ともかく、ひとつひとつの駒の動きを書き留めておかなければ何も始まらない。

 オープニングからじっくりと。

 ばらばらに。

 それら一手ずつが、まるでチェスの勝負のように有機的にからみ合ってくれるとい いのだが。



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